夏目広次(夏目吉信)

三方ヶ原の戦いを描いた『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』歌川芳虎作/wikipediaより引用

徳川家

夏目広次(吉信)三方ヶ原で惨敗した家康の身代わりとなった壮絶な死

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三河武士の忠臣伝説となる

元亀3年(1573年)、武田信玄が大軍を率いて三河・遠江方面へ進軍してきました。

信玄の本隊は約22,000の大軍とされ、さらに約5,000の別働隊を率いるのは、武田で最も恐ろしい部隊として知られる赤備えの山県昌景

この【三方ヶ原の戦い】、なぜ家康は無謀にも城から飛び出して武田軍と戦ったのか? 信玄の策がどれだけ巧みだったのか? 戦国ファンの間では、その辺に興味が集中しがちです。

戦いが、あまりにも一方的だったからです。

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結果は徳川家康の大敗であり、夏目広次はこのとき浜松城で留守を守る役でした。

しかし、胸騒ぎでもあったか、に登って戦場を見てみると――。

「なんということだ……酷い負け戦ではないか……」

一方的に押される味方を見て、ジッとしていられるわけもなく、広次は馬を走らせ、家康のもとへと駆けつけます。

「殿、どうかここは退かれませ、危のうございます!」

家康は決意を固めています。

多勢でわが領地を踏み荒らす敵を前にして、黙って隠れているわけにはいかぬ。いわば武士の意地。

戦場で精神が高揚しているのでしょうか。広次が止めようにも、一向に引き際を決意できません。

「もはやこれまで!」

広次は、家康の馬の向きを逆方向に変えると、その尻を刀の峰で打ち据えました。

驚いて、走り出す家康の馬。そして広次は、ようやく逃げ始めた主君を確実に城へ戻すため、わずか25騎の手勢で敵に立ち向かい、あっぱれな討死を遂げます。

残された家族はどうなったのか?

長男と二男はすでに亡くなっており、三男は出奔していたため、夏目家は四男の吉忠が継ぐことになりました。

以降、夏目家は旗本として存続し、明治時代に夏目漱石という文豪が輩出された――。

と、非常に劇的な展開ですが、この「広次が家康の馬の尻を打ち据えた」というエピソードは話が出来すぎていて一考の余地があるとされます。

それよりも、

「撤退しかないと決めた家康が、夏目広次を身代わりにして、やっとの思いで逃げた」

という解釈の方が自然ではないか?と考えられるからです。

 

美談として語り継がれる 三河武士・夏目吉信

主君に救われた命を、主君のために捨てる――。

そんな武士道の象徴として語り継がれるため、夏目広次は、史料に見られるその名前より、後世に語られた“夏目吉信”の方が有名となっています。

だからこそドラマでは名前を間違えるという仕掛けがあるのでしょう。

しかし、前述のとおり歴史の美談には注意が必要です。

美々しく語られた最期から逆算されるだけでなく、子孫に夏目漱石がいることも考えねばなりません。

幕末から明治にかけて、幕臣や江戸っ子たちは、あまりに不甲斐ない幕府の終焉と、薩長の横暴に苛立ちを募らせていました。

そんな彼らが憧れた存在は「三河武士の忠義」です。

いち早く西洋事情を学んでいた福沢諭吉も、その一人。

だらしのない今の幕府は嫌いだった。

けれども、三河武士の忠誠心は素晴らしい。

武士とはああでなくてはならない。

そんな福沢の思いは、自著『痩せ我慢の説』等で、武士の面汚し認定をした勝海舟と榎本武揚らにぶつけました。

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実は以下のように錚々たるメンバーが

・夏目漱石
・樋口一葉
・幸田露伴

幕臣や旗本の子孫だったりします。

江戸が東京に変わり、薩長による藩閥政治がまかり通る。

そんな時代に刀をペンに持ち替えた三河武士の子孫たちは、勇猛果敢な先祖の名を高めたことでしょう。

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ゆえに“忠臣・夏目吉信”の名が残ったのは、広次が勇猛果敢だったことは間違いないにせよ、何かしらのロマンが加味された可能性が否めないとも判断されるのです。

※現在、静岡県浜松市には夏目広次(夏目吉信)を称える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」が残されています(以下の地図を参照ください)

 

戦国時代の事務方とは?

最後に、大河『どうする家康』で公式発表されていた夏目広次の肩書「戦国時代の事務方」という表記について。

三方ヶ原における“夏目吉信”の勇敢さと忠義が印象的なため、ギャップ狙いで「実は事務方なんですよ」とアピールしているようにも見受けます。

そこに若干の懸念もあります。

中国や朝鮮半島では、文官と武官は分かれています。

「文武百官」といった言葉にもそんな史実が反映されていて、文官選抜試験である【科挙】を突破した官僚が国を動かすエリートとなりました。

一方、この「文」と「武」を分ける制度が定着しなかったのが日本です。

平安時代末期までは文官上位でしたが、鎌倉幕府の台頭でこのシステムは崩壊。

武士が教養を身につけ、文士も弓を習う――文武の統合した武士が育ってゆきました。

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実際の夏目広次も、武士としての武勇があり、同時に裏方のような役目も果たしていたのでしょう。

「戦国時代の事務方」だからといって、コツコツと行政処理を行うような事務方一辺倒でもなかったのでは?と想像します。

文官と言えば、大河『鎌倉殿の13人』でのギャップ萌えが話題となった大江広元が挙げられます。

京都からやってきた大江広元は、筆や箸より重いものを持ったことがないように思えました。それほどまでに知的だったからです。

しかし、和田義盛北条義時と敵対した際は、広元も和田勢に襲われながら、刺客の坂東武者数名を瞬く間に斬り捨てました。

「大江広元が無双できるとは思わなかったわ」

北条政子に励まされてブーストかかったのかな?」

なんて話題をさらったもので、広元を演じる栗原英雄さんですら「あんなに大勢斬るとは思っていなかった」と振り返るほど。

ああも見事なギャップ萌えが生まれたのも、広元のキャラクター作りを丁寧に積み重ねてきたからの結果でしょう。

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一方で夏目広次はどうか。

どうにも夏目吉信の凄絶な忠義の死が前提にされていたように見えた。

そのためでしょうか。家康の記憶力がもはや異常では?と思えるほど執拗に名前を間違えていましたが、いざ広次の死の場面を迎えると、感動した人もいれば、大いにしらけきっていた人もいたようで。

人それぞれ感じ方があるものだなぁと思う次第です。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
柴裕之『徳川家康 (中世から近世へ)』(→amazon
二木謙一『徳川家康』(→amazon

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