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【平岩親吉】
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武田の旧領を任せられ
経緯や原因については現在でも諸説入り乱れていますので、ここで詳細は触れません。
最終的に信康は若くして世を去る事になり、親吉はいったん出仕をしなくなりました。
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事が事だけに表立っては言えないものの、喪に服す意味もあったのかもしれません。
とはいえ、忠義に厚く実績も申し分ない平岩親吉を、家康はいつまでも放っておきませんでした。
親吉は再び出仕するよう命じられると、信康の配下だった家臣たちが親吉の下につけられ、今度は武将としての立場を与えられました。
この立場が重くなってくるのは、本能寺の変後のこと。
天正壬午の乱を経て、徳川が武田旧領の信濃(半国)・甲斐を手に入れてからです。
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家康の本拠・三河からは比較的近隣であるものの、領土が広がれば家康自身が端々まで目と気を配るのは難しいところ。
領主が変わったときには何かとトラブりやすいものです。しかも、この場合は世代交代ではなく、全く別の家に変わったわけですから、さらに確率が倍増します。
一言で表すと「武田旧臣・領民の慰撫」ということになるわけですが、実際はそう単純な話ではありません。
つまりは、実務にあたる人物に大きな責任がかかるわけです。
この重役を、家康は親吉に任せました。
名だたる侍大将の一人に抜擢
平岩親吉は家康の命を受けて、まずは甲府に城を築き始めました。
初めの頃は岡部正綱と協力して支配していたという説もあります。
有名な話ですが、家康は武田家の良いところから学び、さまざまな方針を決めていきました。
そこで親吉に武田氏の国法や軍法を調べさせ、天正13年12月に新たな軍法を定めています。
そして、八人設けられた”侍大将”という役職の一人に親吉も選ばれました。
同じ役目に就いた7人は以下の通り。
いずれも徳川四天王や徳川十六神将に数えられる著名な家臣が名を連ねていますね。
彼らと並び立つ親吉の評価の高さもうかがえます。
侍大将というのは、その名の通り侍の隊を率いる役職です。
序列的には総大将の次とされますので、軍事的な面ではかなり地位が高い。現代風にいえば、”出世街道驀進中”というところでしょうか。
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