戦国最強の武将と囁かれる本多忠勝をはじめ、井伊直政、榊原康政、酒井忠次の四名は【徳川四天王】と呼ばれたりします。
文字通り、徳川家康の躍進を支えたベスト4というワケですが、徳川には他にも「十六将」とか「二十将」あるいは「二十四将」から「二十八将」なんて顕彰まであったりします。
今回注目したいのは、ベスト16には入れない、されどベスト20以降なら確実に名を連ねる――大須賀康高です。
この大須賀さん、知名度は低いながら、精強な武田軍を相手に奮戦を続け、その功績はベスト16にも負けないものと言えます。
天正17年(1589年)6月23日が命日。
本稿でその生涯を振り返ってみましょう。
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四天王の一人・榊原康政は娘婿
大須賀康高の生まれは大永七年(1527年)。
徳川四天王筆頭の酒井忠次とは同い年で、徳川家康から見ると15歳の年長でした。
※以下は徳川家康の考察記事となります
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史実の徳川家康は三度の絶体絶命をどう乗り越えた?天下人の生涯75年
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地元は三河額田郡洞村(愛知県岡崎市)で、前半生においては松平氏の家臣である酒井忠尚に仕えていました。
つまり家康からみると陪臣(家臣の家臣)になりますね。
しかし永禄六年(1563年)に、その酒井忠尚が家康に背いたため、康高は忠尚から離反。
娘婿だった榊原康政とともに、直接、家康の家臣となりました。
これまた四天王の一人・榊原康政が義理の息子だったんですね。
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徳川四天王・榊原康政にはどんな功績がある?家康と歩んだ生涯59年
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さすが徳川二十神将の一人に数えられるだけあって地縁・血縁はしっかりしている印象ですね。
実際、徳川家の主だった合戦に大体参加しています。
一覧にするとこんな感じです。
永禄十二年(1569年)掛川城攻め
元亀元年(1570年)姉川の戦い
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元亀三年(1572年)三方ヶ原の戦い
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天正元年(1573年)長篠城攻め
天正三年(1575年)長篠の戦い
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ご覧の通り、名だたる戦いばかりですね。
上記の戦で目立ったエピソードはありませんが、康高には高天神城周辺での活躍が今に伝わっています。
天正二年(1574年)から始まった、いわゆる【第一次高天神城の戦い】です。
高天神城の戦い
高天神城は武田・徳川の境目にあり、絶えず両者の間で激しい攻防線が繰り広げられていました。
「信玄が落とせなかった城」としても知られていますよね。
当初、大須賀康高は城主の小笠原信興らと共に、この城を守っていて、このときは家康からの援軍が望めませんでした。
というのも、天正二年はじめに上杉輝虎(上杉謙信)から徳川氏へ
「ウチは西上野から武田領を攻めるんで、織田家や徳川家もよろしく」(超訳)
という連絡が来ており、家康は上杉軍の動きを意識して駿河へ攻め込んでいました。
しかし、武田勝頼がその裏を突くような形で1574年(天正2年)5月、徳川領である遠江へ侵攻してきたのです。
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前述の通り、高天神城は”かつて信玄が攻め入って攻略しきれなかった城”でもあります。
代替わりしたばかりの勝頼にとっては「ここを取れば士気が上がるし、自分の能力も証明できる」というところ。
もちろん康高らも譲るわけにはいきませんし、以下の復元図をご覧いただいてご想像通り、この城も非常に堅強な城として知られていました。

高天神城図photo by お城野郎!
援軍が来ない籠城戦は、希望のない戦いであり、通常ならすぐに落ちてしまう場面です。
しかし彼等は粘ります。
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