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【大須賀康高】
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横須賀城と高天神六砦
戻ってきた大須賀康高に、家康はさっそく大仕事を命じます。
「高天神城攻略のため、新しく城を築け!」
かくして天正六年(1578年)、康高は【横須賀城】の築城を開始。
並行して高天神城の周辺に「高天神六砦」と呼ばれる砦を築いていました。
家康もやる気満々ですね。
砦の構築には、康高と共に高天神城で籠城していた渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣なども一緒でした。
彼らは後に「横須賀衆」と称されることになります。
むろん、そんなことをすれば武田との衝突は時間の問題。
両家の戦いが再開したのは、天正六年(1578年)8月のことでした。
この時は徳川方から高天神城に火を放って戦を仕掛け、武田方が打って出てきた……という展開で、以降、散発的に徳川vs武田の戦闘が続きます。
城下にあった田畑の焼き討ちを行ったり、小さな戦闘が起こったり。
何度かの衝突を経て、徐々に徳川有利な流れに……。
そして天正八年(1580年)、横須賀城が完成すると、徳川家康自らが入城し、周囲の砦へも多くの兵を配置しました。
いわゆる第二次高天神の戦い――いよいよ本気の家康に対し、四方を敵に囲まれていた勝頼は身動きできず、高天神城の武田軍は孤立化します。
ただでさえ、前年に田畑を焼かれて兵糧調達が難しかった上、家康本隊に包囲されてしまっては、よそから運び込んでくることもほぼ不可能。
城内の兵はジリジリと追い詰められ、飢餓でどんどん倒れていきました。
兵糧攻めは攻城戦の常套手段とはいえ、生死をさまよう状況に追い込まれた城方としては、こうなると”一か八か”に賭けるしかありません。
あるいは武士として最期に意地を見せたかったのでしょうか。
天正九年(1581年)3月22日の夜、武田軍の城将・岡部元信が打って出てきました。
岡部元信は、もともと今川義元の家臣で知勇兼備の将として知られており、武田に降ってからも重用されていた名将でした。
大須賀康高らはこれを迎え撃ち、見事に勝利すると、高天神城は落ち、再び徳川方のものとなります。
もちろん家康は大喜び。
康高は一連の手柄を認められ、天正十年(1582年)からは松平氏の名乗りを許されました。
なお、高天神城そのものにスポットを当てた記事が以下にございます。
よろしければご一緒にご覧ください。
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武田と徳川が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城~遠江一の堅城を実際に登ってみた
続きを見る
知名度低い理由は何だ?
その後も横須賀城の守りを託された大須賀康高。
本能寺の変後は、武田遺領を巡って発生した【天正壬午の乱】でも活躍しました。
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武田滅亡後の領地を奪い合う「天正壬午の乱」徳川・上杉・北条に真田を交えた大戦乱
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天正12年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】では先鋒、天正13年(1585年)の【上田合戦】では援軍として用いられており、信頼のほどがうかがえます。
かように、徳川四天王には及ばずながら、戦場で活躍していた康高ですが、後世においては知名度が低めですよね。
一体なぜなのか?
というと、おそらく”家が続かなかった”からだと思われます。
大須賀家が途絶えてしまった理由は二つ。
一つは、康高の亡くなり方です。
天正十七年(1589年)6月23日に亡くなったのですが、横須賀城のすぐ近くにある撰要寺(掛川市)というお寺へ参詣した際に、急病で倒れてそのまま……というものでした。
享年63でしたので、急死するような病気が出てきてもおかしくない年齢ではありますが、当時は物議を醸したかもしれません。
もう一つは、当時、康高のもとには跡を継げる男子がいなかったことです。
康高の娘と榊原康政との間に生まれた孫・忠政がいたため、忠政が母の実家に戻る形で大須賀氏は保たれます。
というと問題なさそうに見えますが、しばらく経って今度は”榊原氏の世継ぎが絶える”という事態に。
仕方がないので、忠政の息子・忠次が榊原を名乗り、家を繋げていくことになりました。
結果として、大須賀氏は榊原氏に吸収されるような形で途絶えることになります。
ビッグネームと近い関係にあったがために、大須賀氏や康高の影が薄くなってしまったんですね。
誰も悪くないだけに、なんともいえない話です。
康高と忠政のお墓は撰要寺にあるそうですが、この顛末を見て
「なんだかややこしいことになっちまったな」
なんて、二人で頭を掻いていたかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
山下昌也『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』(→amazon)
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 (3) 静岡県・愛知県・長野県・新潟県・富山県・石川県』(→amazon)