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【平岩親吉】
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家康九男・義直を名古屋で補佐
天正18年(1590年)には、秀吉が北条へ攻め込んだ、小田原合戦(小田原征伐)にも参戦。
本多忠勝・本多忠政・鳥居元忠・植村泰忠らと共に岩槻城(さいたま市岩槻区)を攻め落としています。
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この後、家康は関東に移され、親吉は厩橋城3万3000石の大名格となりました。
関ヶ原の戦い後は甲斐へ転封され、再び平岩親吉の転機となります。
慶長8年(1603年)、家康九男・徳川義直に甲斐を与えられたとき、親吉は義直の附家老となったのです。
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もしかすると、家康は最初から親吉を義直の附家老にするつもりで、露払い役として甲斐を与えたのかもしれませんね。
慶長12年閏四月に義直の所領が尾張に変更された際も親吉が随行し、犬山に6万石の加増を受けて12万3000石という大身になっています。
さすが御三家の家老職というべきか。親吉一人でちょっとした大名並みの所領です。家康の信頼と期待がそのまま出た数字なのでしょう。
義直は幼少のため、家康の手元で養育され、慶長15年(1610年)に尾張へ向かいました。
親吉はこの慶長15年から名古屋城の二の丸に移り住み、尾張の国政を担うようになります。
そして翌慶長15年(1611年)12月30日、名古屋城二の丸御殿で亡くなりました。
跡継ぎがいなかったため、平岩氏の嫡流は断絶することになったのですが……ここで、家康が異を唱えます。
養子として迎えていた家康の息子・松千代も慶長4年(1599年)に世を去っており、親吉は自身の死後、犬山藩の所領は義直に返すつもりだったようです。
しかし家康は親吉の家名を惜しんで、庶子を探し当てたといいます。
結局、その子の母親が親吉との親子関係を否定したため、結果は変わらなかったのですが、『犬山藩史』では、甥の平岩吉範が犬山藩を継ぎ、元和三年(1617年)まで続いたともされています。
平岩氏全体で見ると、一族の中で尾張藩士となった系統がありました。
江戸時代後期に姫路藩に移り、家老職を務めていたといいます。こちらの系統は今も続いているとか。
ちなみに、親吉の死にはちょっと黒い俗説があります。
清正に毒を盛っただと!?
平岩親吉が亡くなる9ヶ月ほど前、徳川家康と豊臣秀頼の会見がありました。
この席を設けた加藤清正が会見の直後に死亡。
領地である熊本へ戻る船の中で発病し、そのまま回復することなく……だったそうです。
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あまりにも突然のことだったため、
「徳川方が秀頼を暗殺するつもりで毒を入れた饅頭を用意しており、清正はそれに気付いて身代わりになったのだ」
という噂が立ちました。
そして、その饅頭を用意したのが家康の意向を受けた親吉だ、という説があります。
毒見をしたのは親吉自身であり、そのため親吉も慶長16年中に亡くなったのだ……と。
事が性質上、この件について真偽を確かめることはほぼ不可能です。
おそらく世間の人々や武士たちが
「親吉ならば、家康のためにそういう事もできてしまうに違いない」
と信じていたために、こういった説が語られるようになったのでしょう。
俗説の類については、嘘か真かという点以外に、”当時の世間一般における認識”が表れているという点も重要かと思います。
「無二の忠臣」とも「家康のためなら手段を選ばない腹黒」とも取れる親吉。
2023年大河ドラマ『どうする家康』では、ちょっと頼りないようにも見えましたが、徳川を支えた人物として目が離せない方でもあったんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
『徳川四天王 江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか?』(→amazon)
他