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【水野勝俊】
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父ちゃん全然引退しない
勝成は74歳で島原の乱(1637年-1638年)に出陣するほど身体頑健だったため、勝俊への家督相続はかなり遅くなりました。
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寛永十六年(1639年)にやっと代替わりしました。
が、それでも父はまだまだ元気だったため、息子に対し藩政にアレコレ口出しすることもあったようです。
親父としては息子を助けてやろうという気持ちもあったのでしょう。
こういう状態が続くと、家臣たちも「ご隠居派」と「当代派」みたいな感じに分かれて争いの元になったりするので、あまり好ましくありません。
トーチャンにとっては40過ぎても息子は”子供”だから心配だったのでしょうが、まさにありがた迷惑。
とはいえ、文字通り父の背中を見て行動してきた勝俊です。
父の気持ちや方針をよく理解しており、内政や文化の振興に力を注ぎました。
領民への気遣いはハンパない
元々母の身分が低い上、小さい頃から苦労して育ったためか、領民への気遣いは異常なレベル(褒め言葉)です。
福山で大きな火事があったときは、
「再建を急がせると町民が迷惑するから、急かさないように」
と命じているほど。
これだけで苦労ぶりがうかがえますね。
不作続きのときには年貢の減免などもしていますし、家中でも倹約をいいつけ、福山藩士は木綿の着物を常用していたとか。
あまり倹約を強いると下からの評判は悪くなるものですが、勝俊が亡くなった際の殉死者が7人もいることからして、かなり慕われていたようです。
勝俊が亡くなった頃は法的に殉死が禁止されてはいなかったのですが、大名の中には「わしの後を追うより、息子に仕えてやってくれ」と言い遺す者も増えていた時期ですので、やはり人柄なのでしょう。
息子の水野勝貞や、孫の水野勝種も寺社は手厚く保護をしているので、信心深い家系というか、そういう家訓があったのかもしれません。
風来坊の水野勝成が、戦国時代を常に最前線で生き抜き、そして福山藩を治め始めてからはそのナリを潜めて名君と称されるようになっていた――それを考えると、息子の勝俊もまた目立ちはしないけれど名君と呼ぶに相応しい人物だったと思えます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
水野勝俊/wikipedia
水野勝成/wikipedia