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伝説よりも榊原を重視した展開に
大樹寺に入った家康。
『どうする家康』ではその後、エモーショナルな伝説をアレンジしながら、実際の放送では以下のように流されました。
・敵兵に追われた元康は、逃げ込んだ大樹寺の先祖の墓前で自害をはかる
→ドラマでは本多忠勝が介錯を買って出ていた。
・登譽が自害を止め、元康の先祖・平親忠が将軍の別称である「大樹」を寺号にこの寺を創設したことを語る。元康がのちの将軍となることを示唆する、まさしく伝説の流れ
→ドラマでは放送なし
→ドラマではたまたま覗き見をしていたニヒルでクールな榊原康政が、以下のように述べていた。
要は、榊原康政に言わせるようにアレンジしたのです。
ならば、なぜ登譽上人を出したのだろう……?と迷ってしまう場面ですが、とにかく後の四天王である榊原康政の顔見せをしたかったのでしょう。
アルフレッド大王の故事だとすれば、さしずめイケメン家臣たちが焦げたパンを食べつつ、
「うまいっすよ! こうしてダメになったようでもいけるんじゃないスか、俺らも再起しましょ!」
と語りかけるようなノリでしょうか。
里見浩太朗さんのようなベテラン俳優が重々しく教えを説くより、軽快な展開を選んだということですね。
あくまで伝説ではあるけれど
登譽上人はあくまで伝説上の人物です。
偉大なる王の危機を救う――物語ではお約束の人物であり、家康が「厭離穢土欣求浄土」を旗印とした経緯には複数の説があります。
出しても出さなくてもよい。
そこを踏まえると『どうする家康』の方向性は明確。
重々しい神君家康公ではなく、明るくノリのいい、現代若者のような姿にしたかったのでしょう。
寺島しのぶさんが敢えて伝説を茶化してナレーションを語り、ズッコケ要素を入れた本編が始まるあたりからもうかがえます。
『鎌倉殿の13人』の陰惨さが苦手だった方にとっては良いのかもしれません。
なお、桶狭間の戦い後、家康がどうやって岡崎城までたどり着いたのか――という行軍ルートについては、以下の記事で検証されていますので、よろしければ一読ください。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
柴裕之『青年家康 松平元康の実像 (角川選書)』(→amazon)
柴裕之『徳川家康 (中世から近世へ)』(→amazon)
他