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江戸時代の京都~大坂物流を担った高瀬川
運河のルートは、二条から鴨川の水を入れ、伏見までを繋ごうというものでした。
水の入り口は、現代だと京都市営地下鉄東西線の京都市役所前駅から、徒歩7~8分の地点。
そこからずっと南へ下り、途中からは”東”高瀬川や”新”高瀬川と名を変え、京阪本線・京阪宇治線中書島駅の西で宇治川と合流します。
了以の時代には、全体をまとめて「高瀬川」と呼んでいたようですね。
高瀬川は、江戸時代を通して活発に使われました。
さすがに明治時代からは使用量が減り、大正時代には廃止されましたが、「200年近く使われた交通手段」と考えるとすごい話ですよね。
この運河によって、二条~伏見間の物流が活発となり、さらに淀川を経由して大坂にも繋がり、近畿圏の経済発展につながりました。
見方によっては、江戸周辺に偏ってもおかしくなかった江戸時代の経済が、この水路によってバランスを保つことができたともいえます。
戦国時代にダメージを受けまくった京都周辺をそのまま放置しておくと、皇室の生活まで脅かされてしまいますからね。
しかも、用地の買収などに自身の財産(七万五千両)も投じたというのですから、恐れ多いというほかありません。
竣工を見届け1614年に逝去した
高瀬川の工事時点で、了以はすでに60代にさしかかっていました。
慶長十八年(1613年)からは息子・角倉素庵に事業を継承させ、一線を引いています。
翌年には高瀬川の竣工を見届け、慶長十九年(1614年)に逝去。
大坂の陣の年という、運命的なタイミングであり、豊臣家にも縁が深かった了以が、その最期を見るまえに世を去ることができたのは幸運かもしれません。
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了以の子孫たちも順調に家業を受け継ぎ、幕末まで了以の残した高瀬川や大堰川を管理しながら続きました。
現代では船運のウエイトは減りました。
が、高瀬川では夏期に川床が設けられたりして、新たな役割を持つようになっています。
在りし日の船運や角倉了以を思い浮かべながら、料理や景色を楽しむのも一興ですね。
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【参考】
国史大辞典「角倉了以」