本サイトにも何度か登場しておりますが、その堅実さゆえなのか、世間にあまり能力が知られていない人物の一人ではないでしょうか。
ましてや“母”ともなれば、ほとんど全く注目されません。実は、かなり波乱万丈な生涯でして……。
今回は、寛永十二年(1635年)9月17日に亡くなられた保科正之の母・お静の方(浄光院)の一生を振り返ってみたいと思います。
俗名は静(しず)で”お静の方”とも呼ばれますね。
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お静の方と秀忠はいつ出会った?
案の定というかなんというか、お静の方は身分が低く、あまりハッキリした記録は残っておりません。
北条家の遺臣・神尾栄加の娘という説があり、彼女のタイプとしてはその名の通り物静かな人だったようです。
徳川秀忠に見初められたのは、慶長年間(だいたい豊臣秀頼の元服から豊臣家滅亡まで)だとされているので、まさに秀忠がピリピリしていた時期。
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これは完全にワタクシの想像ですが、現在で言うところの”癒し系”だったのではないでしょうか。
秀忠の正室・お江与(江・ごう)は浅井三姉妹の中にあっても特に苛烈な性格だとされます。
仕事に目を向ければ、関ヶ原の戦いに遅参したり、将軍職を継承したり、子供達とのアレコレなどがあってストレスてんこもりだったり。
「もうやめて! 秀忠のMPはゼロよ!」状態な頃ですから、お静の方のように優しい女性にビビビと来てしまうのも無理はありません。
彼女は秀忠の乳母である大姥局(おおうばのつぼね)に仕えていたので、おそらく乳母に何か相談事でもしに行ったときに秀忠と出会ったと目されています。
乳母というと今では子守をする人のイメージしかありませんが、当時は教育係や相談役も兼ねておりましたので。
一度は堕胎の道を選ばされるも……
そして成るべくして成ったというか、お静の方は懐妊します。
が、当時は正室が認めなければ側室を増やせないことになっていました。
正妻のお江与にとてもじゃないけど言い出せない秀忠は、お静の方を妻として迎えることができません。
一度は堕胎という道を選ばされ、秀忠とは離れ離れになってしまいます。
されど、大姥局の求めに応じて再び働き始めると、やっぱり秀忠に求められて再び身籠ります。
こうなるとさすがに子供を堕ろすことはできず、産むことになり……慶長16年(1611年)5月7日、無事に幼名・幸松(後の保科正之)は誕生しました。
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ただし、そのまま静の下で育てていたら、いつお江与にバレるともわかりません。
大姥局が手を回して面倒を見てもらったのが、武田信玄の次女である見性院でした。
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