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【お静の方(浄光院)】
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信玄の娘が家康の孫を育てる不思議な縁
見性院は、信玄とその正室・三条夫人の間に生まれた次女で、武田御一門衆(親族)の穴山梅雪へ嫁いでおりました。
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が、夫の梅雪が【神君伊賀越え】で殺されてしまい、その後は、徳川家康に保護され、江戸城で暮らしておりました。
更には、かつて織田信忠との遠距離恋愛を貫き、信忠の死後に出家していた松姫(信松院)も味方になってくれて、この子を育てます。
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なんだか名君・保科正之が生まれる理由がわかるような気がしますよね。
周囲でこういう連係プレーができるあたり、お江与のアレっぷりは当時からかなりのものと思われていたのでしょう。はっきりした史料はないそうですが。
ちなみに見性院の住まいは江戸城北の丸だったそうなので、いつバレてもおかしくない状況。それでも大丈夫だったって、どんだけキツイ緘口令やねん。
余談ですが、かつて三方ヶ原でボッコボコにやられた信玄、その娘が自分の孫を育ててくれたと知ったら、家康はどんな顔をしたでしょう。ちょっと見てみたい。
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高遠藩主を経て会津、将軍の後見役に
その後、正之を表向き信濃高遠藩主・保科正光の子として扱うことになったため、お静の方も一緒に高遠へ。
彼女は18年後に同地で亡くなったため一度は長遠寺(現・長野県伊那市)に葬られたようですが、後に正之が会津藩主になった際、会津の浄光寺(現・福島県会津若松市)に改葬されます。
母の戒名に合わせてお寺の名前を変えたそうで、それは親孝行なのかお寺への横暴なのかゲフンゲフン。
ややこしいことに本人の信仰が日蓮宗だったので、さらに久遠寺(現・山梨県身延町)でも改葬。
つまり菩提寺が三つあるということになりますが、生前はともかく死後は身分ある扱いをされているんですね。
特に久遠寺の碑には
「孝子会津従四位上左近衛権少将源朝臣正之奉仕」
と書かれており、正之が母親を大切に思っていたこと、死後はきちんと扱いたいと考えたことがわかります。
正之がこの位についたのは、母親が亡くなってから十年以上後のことなので、おそらくや
「母上、私はこんなに重大なお役目を任せていただけるようになりましたよ」
と伝えたかったのでしょう。
自ら”孝子”(=孝行息子)なんてつけるといかにもあざとい感じがしますが、正之の場合あまりそういう感じはしませんね。
母子間のエピソードは特にないようですけども、目立ったトラブルが起きていないところを見ると、高遠では普通の親子として暮らせていたのでしょう。
そう考えると、将軍の側室としての身分は手に入らなくても、お静の方としては幸せだったかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
浄光院(保科正之生母)/Wikipedia
浄光寺(→link)