承応四年(1655年)2月21日は、福山藩二代藩主・水野勝俊(かつとし)が亡くなった日です。
戦国ファンの皆様にとっては、藩主としてよりも、あの水野勝成の息子といったほうがイメージしやすいでしょうか。
父の勝成は、徳川家康の従兄弟ながら「奉公構(ほうこうかまい・他家への奉公も一切禁止する最も厳しい破門処置)」を喰らい、再び水野家に戻って今度は名君になるなど、とにかくエピソードに事欠かない人物。
では、その息子・水野勝俊とはどういう人だったのか。
早速振り返ってみましょう。
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水野勝俊/wikipediaより引用
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父放浪中に生まれた息子
水野勝俊が生まれたのは、慶長三年(1598年)のこと。
戦国時代の末期、父がまだ放浪中のときでした。
なんせトーチャンの勝成と来たら、父親(水野忠重)の家臣をぶっ殺し、その父と大喧嘩の末に水野家を追い出され、豊臣秀吉やら黒田官兵衛やら佐々成政やら、名だたる大名のもとをいくつも転々とし、暴れん坊の名を欲しいままにしていた御方です。
よく浮浪の立場で子供を作ろうと思ったものですが、勝俊の母の身分からすると「なるようになった」という経緯だったのでしょうか。
その後勝成は紆余曲折の後、家康の仲介などもあって水野家に復活。
徳川政権樹立の立役者となります。
もともと水野家は家康の母・於大の方の実家ですし、
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於大の方/wikipediaより引用
徳川家としても期待するところは大きかったでしょう。
父の勝成が二代目将軍・徳川秀忠に仕えはじめた頃、息子の勝俊も母と共に江戸へ呼び寄せられ、武士として公式デビューを果たしています。
又兵衛と戦ったり幸村の攻撃を守ったり
水野勝俊は、大坂の陣で冬(1614年)・夏(1615年)ともに参陣し、特に夏の陣では手柄を挙げました。
父の隊が後藤又兵衛隊と戦ったり、真田幸村が家康を急襲したときに背後を塞いだりしているので、おそらく勝俊もこのどちらか(あるいは両方)で御首の一つや二つ取ったのでしょう。
ちなみに父の勝成は、家康から「前に出るなよ、絶対だぞ! これはフリじゃなくて、マジなやつだからな!!!(超訳)」と厳命されているにも関わらず、
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徳川家康/wikipediaより引用
後藤又兵衛との戦いでは一番槍の功を挙げたりしてます。
ほんと、年取っても「KING OF 戦国武将」みたいな人で、勝俊も頭を抱えたのではないでしょうか。
豊臣家が滅び、幕藩体制も確立&安定化へ。
水野家は福山藩に封じられ、その後【島原の乱】に出陣したときなども、父に従って動いています。
親子間で目立ったエピソードはありませんが、一言でいえば「よくできた息子」という感じですね。
ちなみに福山藩は、元は福島正則の領地だったところです。
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福島正則/Wikipediaより引用
正則が広島城の無断で修築したことによって改易されたとき、領地がいくつかに分割され、そのうち福山藩が水野家の領地となりました。
そこで勝成が建てたのが福山城ですね。
父は放浪していた頃、福山周辺にいたため土地柄に詳しかったため、ぜひにと幕府にかけあって封じられたのだとか。
それだけにやる気も大きく、入封直後からさっそく城や町、灌漑設備などの整備に力を注いでいます。
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