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【大岡弥四郎】
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築山殿は関与したのか?
大河ドラマ『どうする家康』での大岡弥四郎は、瀬名の信頼を得ているという設定でした。
これは一体どういうことか?
というと史実的な根拠は考えられます。
『三河物語』のように、後世ロンダリングされたと推察できる史料ですと、築山殿と事件の関与は伏せられています。
しかし『岡崎東泉記』には、当時の伝聞が残っているのです。
甲斐から口寄せ巫女がやってきて、築山殿の侍女たちを籠絡。
そしてこう言ったとか。
「勝頼に味方し、勝頼が天下を取れば、築山殿を妻として迎えよう。そして信康を嫡男とする」
さらには築山殿の周辺にいた西慶という唐人医を抱き込んで、計画に加担させた。

築山殿/wikipediaより引用
まるで荒唐無稽なゴシップネタのように毒々しさに満ちている。
信憑性は怪しいけれど、そもそもこんな噂が流れるほど胡乱な雰囲気が充溢していたのでしょう。
この話は、一から十まで全てを否定できるとは言い切れません。
そこで注意しておきたいことがあります。
戦国時代の婚姻関係です。
当時は、相手の美貌など関係なく、あくまで家と家との結びつきであり、同盟のつなぎ役として婚礼は重宝されました。
強大な武田に無謀な戦いを挑み、滅びようとしている夫の徳川家康。

徳川家康/wikipediaより引用
もしも再び武田と戦うことになれば、今度こそ信康はただでは済まないかもしれない。
この際、天下を狙えるほど強い武田勝頼につけば、信康は安泰どころか天下人の後継者となるかもしれない――そんな天秤にかけて、武田を選んでも無理のないことでしょう。
築山殿と唐人医の関係も、不倫だ密通だと誇張されますが、そもそも医者は職業上、肌に触れる場面が多いもの。そこからの邪推や曲解もあったとも考えられます。
そして、こうした生々しい徳川家の内紛が、そのまま残されるのはマズい。
大岡弥四郎の一件は、次第にそう見なされてゆき、江戸期以降の『徳川実紀』のような書物は、大岡弥四郎が増長していたことや、野心を抱いていたことを強調してきました。
どうする大岡弥四郎描写
『どうする家康』の人物紹介における大岡弥四郎は、毒々しい誇張ありきの造形に思えました。
史実の状況からして、事件は彼一人の野心で起こせたとは到底思えない。
しかし、個人に集約した方がフィクションの展開としてはラク。
例えば『どうする家康』では、今川家に囚われた関口一家の救出作戦が、関口氏純の妻である巴の迂闊さにより失敗してしまうという描き方でした。
この関口一家が人質になる過程も、今川氏真が瀬名(築山殿)を“夜伽役”にしたいという個人的な願望が描かれていた。

今川氏真/wikipediaより引用
大岡弥四郎も、そうした“わかりやすさ”を重視したのか、処刑の前に
「うまい飯食って酒を浴びるほど飲んで女遊びしてぇ!」
なんて叫び出す始末です。
一体あれは何だったのか……。
国の存亡がかかっている事態でそれぞれが生死を賭して必死だったのに、そんな町のチンピラみたいに俗物的な願望を叶えるため徳川から武田へ寝返ろうとしていた……って、あまりに短絡的過ぎませんか。
ドラマの弥四郎像が頭の中に残っている方は、修正された方がよいかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
黒田基樹『家康の正妻築山殿: 悲劇の生涯をたどる』(→amazon)
柴裕之『徳川家康: 境界の領主から天下人へ』(→amazon)
他