農民の身分から天下人となり、愛嬌あるキャラで庶民に親しまれているせいなのか。
あるいは天下人となった後、自ら伝説を大量に偽造したせいなのか。
現代においても、ド派手な逸話をもつ豊臣秀吉ファンは少なくない。その中でも秀吉の立身出世の足がかりになったキッカケとして有名なエピソードが【墨俣一夜城】であろう。
柴田勝家も佐久間も失敗した困難極まりない築城
時は1566年。織田信長が美濃(岐阜)の斎藤家を攻めるため、国境近くに城を作る計画が持ち上がった。場所は長良川の対岸。ここに拠点を作ることができれば、美濃という高い壁にハシゴをかけたも同然であり、極めて重要な作戦だった。
信長は、重臣の柴田勝家、佐久間信盛に拠点確立の命をくだす。と、これが尽く失敗。
そこで「アッシにやらせておくなまし」と猿(実際のアダ名は違いますが、また別の機会に)こと若かりし秀吉が地元の土豪・蜂須賀小六と手を組み、たった一晩で完成させてしまったとさ!
これが名高き墨俣一夜城のあらましである。
実際に一晩で完成させたかどうかはさておき、これを機に秀吉は出世したことになっているが、墨俣は再三戦場にもなった場所であり、ひとつの大きな疑問が浮かんでくる。
なんで斎藤家では先に城を作らなかったの?
勝家や佐久間の築城を邪魔するぐらいなら、その前から建設しておけばよかったのだ。
なんとなんと信長公記に答えがありました
そう思ったら、答えは意外にもアッサリでてきた。
なんと織田信長の足跡を細かく記した『信長公記』に「城がすでに存在していた」(洲俣御要害)ことが書かれているのだ。
一方で一夜城が作られたはずの永禄9年(1566年)には逆に、まったく書かれてなかったのだ。つまり、秀吉が作ったというのは完全なデタラメである。
ははーん、(改ざんを)やりおったな、猿め! と、疑いの目で見るのは戦国通のサガであるが、今回ばかりは秀吉さんは悪くありましぇん。
この話は明治時代の著名な歴史家が江戸時代に流れていた通説を信じてしまい、また、その歴史家が著名すぎたがゆえに誰も反論できず、そのまま放置されてきたのである。
さらには戦後突如あらわれた「武功夜話」(前野家文書)という、現在では戦国時代に遡ることはないとされる史料でもドラマチックに描かれたことで一気に世間に記憶として定着してしまったが、現在、墨俣一夜城を信じる研究者はほとんどいないという。
ところがところが、同じ年に墨俣一夜城の戦いに似た戦いが、織田VS斎藤の間で起きていたことも近年明らかになってきた。これは信長公記には書かれていないことだ。
斎藤方が武田信玄へ送ったと見られる文書から判明した。
そこには、「信長が尾張・美濃国境に攻めてきて、川を渡り、陣を敷いた。すぐに斎藤軍が迎撃にでると、信長軍はすぐに川を戻って対岸に陣を張った。両軍は対岸に陣を敷き、戦いとなった。信長軍が逃げたので追撃して、散々にやっつけました、いえーい!」という内容が書かれていた。
あれ?信長敗北?
実際は、両軍がお互いこのような戦勝報告をしたのだろう。結局、にらみ合い、小競り合い程度があっただけの戦いだったのかもしれない。そんな古い記憶が、雪だるまのように秀吉の偉業と結びついて……
秀吉が派手好きということは間違いない。そのため、このような話も信じられてきたのであろう。だがそれは、秀吉がさほどに魅力的な人物だったとの証拠でもある。
文・川和二十六
【参考文献】
藤本正行『信長の戦国軍事学』
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』
谷口克広『織田信長合戦全録』