「全国的には知られてないけど、ある地域ではバツグンの知名度を誇る戦国武将」というテーマでお送りしている当コーナー。
今回ご紹介するのは、永禄12年(1569年)8月11日に亡くなられた、レペゼン高知県安芸市の「安芸国虎(あき くにとら)」さんです。
申し遅れましたが、わたくし、「れきしクン」こと長谷川ヨシテルと申します。以降お見知り置きください!
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安芸国虎 高知県安芸市で絶大な支持!
とにかく名前がめちゃくちゃカッコいい!
「安藝國虎」と書くこともあり、この時点で「あ〜知ってる知ってる」という方は、おそらく高知出身か『信長の野望』プレイヤーでしょう。
ということで『信長の野望』(シリーズは私が一番ハマった『革新』)から、安芸国虎さんの能力データを引用したいと思います。
コチラです!
【信長の野望 革新】
安芸国虎データ
統率64
武勇68
知略32
政治42
うーーーーむ、弱い……(笑)。
しかし、です!
地元の安芸市では絶大な支持を得ています。
実は昨年2019年は、安芸国虎さんの没後450年にあたり、安芸市立歴史民俗資料館では『安藝國虎没後450年記念展』を開催。
地元の高知新聞でも“安芸の英雄”として取り上げられました。
また、安芸市にある超有名なうどん屋さん(なんとパリに支店も!)の名は「国虎屋」です。
由来はもちろん安芸国虎さんですね。
手打ち麺と特製味噌ベースの出汁に、ゴボウやニラや豚肉が合わせられた力強いうどんだそうで。
その力強さのイメージとなったのも、そう、 安芸国虎さんなのです!
地元では、とにかく人気抜群。
かつては「国虎祭り」が行われ、安芸国虎さん扮する武者行列も実施されただけでなく、昨年の特別展では『安芸国虎450回忌 人形劇 国虎物語』まで開催されました。
なんとも愛されているご当地武将ではありませんか。
そんな安芸市が誇る……あ、今更ながら安芸市ってどの辺にあるかご存知でしょうか?(笑)
野球が好きな方、特に阪神タイガースが好きな方は、春と秋にファーム(二軍)のキャンプが安芸タイガース球場で行われているので見慣れているかもしれません。
高知龍馬空港から東に約20km、高知駅からは東に約35kmの辺り……って、地図をご覧いただいた方が早いですね。
こうして高知県の地図を見ると、おそらく戦国ファンの皆様はあの方を思い浮かべましょう。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)――。
岡豊城(おこうじょう・南国市)や浦戸城(うらどじょう・高知市)を拠点として四国統一を成し遂げた人物です(遂げてない説も)。
※以下は長宗我部元親の生涯まとめ記事となります
長宗我部元親が土佐一国から戦乱の四国を統一!最期は失意に終わった61年の生涯
続きを見る
安芸国虎さんは、この四国が誇る名将“長宗我部元親の最大のライバル”であり、長宗我部家から安芸を守るために戦い、家臣や領民のために散ったと伝わるお方であります。
それでは安芸国虎さんの人生に迫って行きましょう!
「土佐七雄」とは?
土佐国の戦国大名というと長宗我部家がダントツ有名。
しかし元親が天正3年(1575年)に四国を統一するまでは群雄割拠であり、大きな勢力が7つありました。
「土佐七雄」と称され、そのメンバーは次の通りです。
赤字:長宗我部家に攻められ滅亡した勢力
青字:長宗我部家に飲み込まれた勢力
以下に「土佐七雄」の概略を掲載させていただきますね。
ちょっと長くなりますので、飛ばし読みされれても大丈夫です!
長宗我部家
領地:長岡郡3,000貫
長宗我部兼序(元親の祖父)が永正5年(1508年)に本山家・大平家・吉良家・山田家に岡豊城を攻められ滅亡。
一条家に落ち延びた息子の長宗我部国親(元親の父)が後に岡豊城に復帰して勢力を伸ばし、長宗我部元親が土佐国を統一する。
○系譜メモ:長宗我部兼序―国親―元親
香宗我部家
領地:香美郡4,000貫
大永6年(1526年)に東の安芸家に攻められ大敗。
西の長宗我部家からも圧力を受けたため、弘治4年(1558年)に香宗我部親泰(長宗我部国親の三男・元親の弟)が養子に入り、長宗我部家に飲み込まれる。
※香宗我部家の代わりに香美郡の「山田家」(香宗我部家の親戚)を入れる場合も
大平家
領地:高岡郡4,000貫
天文15年(1546年)に一条家に蓮池はすいけ城(土佐市)を攻め落とされる。
小領地を与えられていたものの、謀反を疑われ永禄9年(1566年)に再び一条家に攻められ滅亡した。
吉良家
領地:吾川郡5,000貫
天文9年(1540年)に本山茂宗に攻められ滅亡。永禄6年(1563年)に吉良親貞(長宗我部国親の次男・元親の弟)が養子として復興する。
長宗我部家に飲み込まれた。
津野家
領地:高岡郡5,000貫
長宗我部家に対抗するが、長宗我部家への従属を勧める家臣たちにより当主(津野定勝)が追放され、従属化。
後に長宗我部元親の三男(津野親忠)が養子に入り、飲み込まれる。
本山家
安芸国虎さんと同じくアンチ長宗我部家!
本山茂宗の代にピークを迎えるが、本山茂辰(茂宗の子)が永禄3年(1560年)【長浜の戦い】で長宗我部国親・元親の親子に大敗する。
大劣勢の中、本山茂辰は4年後に病死。跡を継いだ本山貞茂は滅亡寸前となり、元亀2年(1571年)に降伏した。長宗我部元親に従属して一字をもらい「本山親茂」と改名する。
【系譜メモ】本山茂宗―茂辰―貞茂(親茂)
安芸家
領地:安芸郡5,000貫
安芸国虎さんの代にピークを迎える。
アンチ長宗我部家の代表的存在として長宗我部元親と戦う。詳しくはこの後!
以上、土佐七雄の上には、リーダー的立ち位置で別格の「一条家」もいました。
この一条家は特殊な存在で、元々は京都にいた一条教房という元関白が、応仁元年(1467年)に始まった【応仁の乱】から逃れるため、土佐国にあった領地の幡多荘(四万十市)に下向したことがスタートとされる大名家です。
つまり公家から戦国大名化したんですね。
戦国大名に転身した名門貴族~土佐一条家はなぜ四国に下向した?
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非常に珍しい一族であり、領地も16,000貫と別格でした。
ご先祖様はあの蘇我氏!?
飛ばし読みされた皆さま、お帰りなさいませ。
とりあえず土佐七雄については、安芸国虎さんの時代に土佐国でブイブイ言わしていたのが「一条家」「長宗我部家」「本山家」そして「安芸家」だと思っておいてください。
さて、今回の主人公・安芸国虎さんは享禄3年(1530年)に生まれたと言われています。
戦国九州の王者か非道の暗君か?大友宗麟(義鎮)58年の生涯まとめ
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安芸家の家系はスタートがよく分かっておらず、諸説あり、一説には蘇我赤兄が家祖ともされています。
蘇我氏といえば?
皇極天皇4年(645年)の【乙巳の変】で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足のクーデターにより、滅亡した一族というイメージが強いかと思います。
しかし、滅ぼされたのは、あくまで蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子であり、実はクーデター側についた蘇我氏もいました。
蘇我倉山田石川麻呂といいます。名前、長っ!(笑)
ちなみに、乙巳の変で蘇我入鹿を討ち取った実行犯・佐伯子麻呂については、拙著『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)でまとめております。
ぜひお手にお取りくださいませ!(すいません、宣伝です・笑)
話を戻します。
安芸国虎さんの家祖とされる蘇我赤兄は、蘇我倉山田石川麻呂の弟でした。
赤兄は、兄がクーデターに協力したこともあり天智天皇の重臣となるも、その天皇が亡くなった天武天皇元年(672年)に、皇位継承争い【壬申の乱】が勃発。
蘇我赤兄は大友皇子(天智天皇の子)に味方をし、敵方である大海人皇子(天智天皇の弟)に敗北しました。敗者の蘇我赤兄は、死は免れるものの配流となってしまいます。
この配流先が詳細不明でして……伝承の1つとして挙げられるのが、古代から配流先の定番だった土佐国なんです。
そして、その末裔(?)というのが安芸国虎さん!
いやぁ、長くなりましたが、話を安芸国虎さんの時代へぶっ飛びましょう。
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