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【安芸国虎】
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長宗我部元親と激突! 八流の戦い
【岡豊城の戦い】により、安芸国虎さんと長宗我部元親の対立は本格化。
すぐさま再戦の動きになったところで一条兼定が両者を仲介し、翌永禄7年(1564年)に和睦となりました。
この後、表立って大きな争いは無く、再び両軍が激突するのは永禄12年(1569年)のこと。安芸国虎さん40歳、長宗我部元親31歳の時でした。
同年4月、安芸国虎さんのもとへ、長宗我部元親から急に使者が訪れ、次のようなことを伝えたといいます。
「数年前、不慮の事(夜須の領地争い、岡豊城の攻防戦)が起きて、確執が生まれてしまいました。
戦国にはよくあることですが、これでずっと怨敵というわけではないでしょう。
近々、岡豊城へお越し下さい。会談をして和睦の誓約を結び、同盟を組みましょう」
この使者の口上に対して、読者の皆さんが安芸国虎さんだったら、どのように返答されます?
個人的な感想ですと、まず「怖い」。絶対、暗殺モードじゃないですか、これ。仮病で会見を断りたくなりますよね。
ただ、すでに使者と会ってしまっていると、仮病がバレてしまいそうですが(笑)。
とにかく、私だったら岡豊城には絶対行かないです!
しかし安芸国虎さんは、私のようなチキン野郎とは少し違ったようです。
結果的には「岡豊城には行かない」という点は一緒なのですが、断った理由は“安芸の英雄としてのプライド”でした。
安芸国虎さんは次のように答えます。
「互いに領地の境に出て誓約を結ぶべきであろう。岡豊城に来いというのは、私に降参しろと言っているのか」
家格も領地の大きさも長宗我部元親に劣らない安芸国虎さんは、同盟相手の一条家の援軍も見込んで、追い返す気満々。
しかし、重臣の黒岩越前守が次のように助言します。
「現状では、同盟相手の一条兼定が、隣国(伊予国の西園寺公広)と戦っていて援軍は見込めません。そのため長宗我部元親との友好を保つ方が……」
しかし、安芸家の家格を冒涜された安芸国虎さんは、長宗我部元親が送り付けてきた無礼な使者を岡豊城には返します。
使者を斬り捨ててもおかしくない場面ですが、きちんと送り返すところに安芸国虎さんの人の好さを感じます。
こうして、冷戦関係だった両者の対立の火は再び着火。土佐名物・カツオ藁焼きの藁くらい一気に燃え上がり、7月に雌雄を決する【八流の戦い】が起こります!
敵援軍を装った漁船! 続出する裏切り……
先手を打ったのは長宗我部元親でした。
すでに北部の敵だった本山家を滅亡同然に追い込み、兵の動員に余裕が出ていた長宗我部家は7,200の兵で岡豊城を出陣。
安芸家の忠臣・黒岩越前守が守っていた金岡城を包囲します。
黒岩越前守はわずか500の兵で三日三晩籠城戦を繰り広げますが、ついに力尽きて安芸城へ撤退となりました。
金岡城を落とした長宗我部元親は和食(芸西村)あたりに陣を張ったといいます。
赤い拠点(左)→岡豊城
赤い拠点(右)→和食の陣
黄色拠点(左)→八流の陣
黄色拠点(右)→安芸城
これを迎え撃つために安芸国虎さんは、本拠地の安芸城や海沿いの支城・新城城と穴内城の防備を固め、5,300の兵を率いて出陣。
海に面した要害の地である八流あたりに陣を張ったといいます。
地の利のある安芸国虎さんが合戦を優位に進めるように思えますが、長宗我部軍は奇策を以って安芸国虎さんの軍勢を翻弄します。
アノ吉田重俊とソノ孫の吉田孝俊が、事前に周辺の漁師を買収。合戦中に船の上から鬨の声を挙げさせ、援軍が訪れたように見せかけたといいます。
この奇策によって安芸国虎さんの軍勢は大きく動揺をしました。
しかも、長宗我部軍が買収していたのは漁師だけではありませんでした。
安芸家の譜代家臣たちは長宗我部軍に調略され、次々に安芸国虎さんを裏切っていくのです。
裏切り者たちは長宗我部軍の山越えルートを先導。安芸国虎さんの軍勢の背後に迫りました。
奇計、裏切り、奇襲―――。
最悪な状況に陥った安芸国虎さんは、安芸城へと撤退し、籠城戦に持ち込むほかありませんでした。
兵糧は尽き井戸には毒……城兵の命と引換えに自害を
安芸家代々の居城だった安芸城が築かれたのは、延慶2年(1309年)と伝えられています。
大きさは約10ヘクタール(東京ドーム約2個分)。
詰(城内の小山・見張りや籠城戦用の施設)からは安芸平野や太平洋を一望でき、東には安芸川、西には矢の川が流れ、北には城ヶ淵が広がる天然の要害でした。
この地を頼りに籠城戦を続けた安芸国虎さん。
しかし頼みの綱の一条家からは援軍を見込めず、さらに長宗我部軍の調略によって籠城していた将兵が続々と寝返り、城内に蓄えていた兵糧も尽きてしまいます。
そして、籠城から24日後―――。
東の安芸川対岸から放たれた長宗我部軍の火矢によって安芸城は炎上。
さらに悪いことに、長宗我部軍に内応した横山民部という者が城内の井戸に毒を入れしまったため、飲用水の確保すら出来なくってしまいました。
ちなみに、この時の井戸と伝わるものが、現在も安芸城に残されています。
兵も糧も失った安芸国虎さんは、ついに長宗我部元親に降伏することを決意します。
その時、一つの条件を提示しました。
「城兵全員の助命」です。
長宗我部元親はこれを承諾。国虎さんは菩提寺である「浄貞寺」を最期の地に選びました。
ただし、自害の前に遺児・安芸千寿丸を阿波国(徳島県)へ側近と共に落ち延びさせ、さらに正室を実家の一条家に送り返しています。
浄貞寺は安芸国虎さんの祖父の安芸元親(皮肉にも名前が元親!)が明応4年(1495年)に建立し、山号を「元親山」と称したそうです。
寺名は、祖父の法号「正仲浄貞」に由来するもので、父の安芸元泰が名付けました。
境内には父と祖父のお墓が立てられています。
8月11日。
浄貞寺に入った安芸国虎さんは、最後の最後まで付き従ってくれた家臣たちが見届ける中、境内の池で太刀を清めた後に切腹をしました。
写真を撮り忘れてしまったのですが、現在もその池は「太刀洗の池」として伝えられています。
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