文禄三年(1594年)の2月27日、豊臣秀吉により吉野の花見が行われました。
『あれ?時期尚早じゃない?』
と思われた方、ご明察です。
当時のその日は、新暦に直すと1594年4月17日になり、シロヤマザクラを中心とした約200種3万本が見頃を迎える4月上旬~中旬に当てはまります。
秀吉も、さぞかしノリノリだったことでしょう!
と思いきや……。
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到着から3日間、雨が降り続き、秀吉ブチ切れ
満開シーズンに子飼いの大名やお姫さんたちを引き連れ、さぞかし当人は楽しかったことでしょう。
この時期って最初の朝鮮出兵「文禄の役(1592-1593年7月)」が終わったばかりで微妙な時期なんですけどね。
※2度目の「慶長の役」は1597年から
秀吉当人はといえば、天下統一事業を成し遂げ、前年には一時諦めかけていた世継ぎ(後の豊臣秀頼)も得て、文字通りこの世の春を謳歌。
周囲の心境などドコ吹く風だったようです。

イラスト/富永商太
しかしここで「そうはいくか!」とばかりに横槍が入ります。
といっても武将達ではありません。
吉野山の神仏です。
秀吉はこのとき徳川家康や前田利家、伊達政宗といった錚々たるメンツも引き連れていたのですが、秀吉の現地到着から実に三日間も雨が降り続いたというのです。
どう見ても天罰です、本当にありがとうございました。
さすがに苛立った秀吉は、吉野のお坊さんに八つ当たりします。
「降り止ませないと全山焼き討ちすんぞ!!」(意訳)
そんな無茶振りをして、周辺のお寺に晴天祈願をさせました。
ホント、これって耄碌でしょ、老害でしょ。
神仏も「アイツ気に入らないけど、いつも拝んでくれてる奴らが困るのは嫌だな。そろそろ勘弁してやろう」と思ったのか、無事に雨は止んで花見が出来たそうです。
人が余計に殺されたりしなくて、ほんと良かったですわ。
紫式部の粋なはからいで名歌が生まれた
さて、吉野山は古くから桜の名所として知られていたため、この二つを詠んだ和歌がたくさん残っています。
ついでですので、その中から割とわかりやすいのを拾ってみました。
まずは個人的に好きなこれからいきましょう。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
【意訳】「古の奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日この日は今日の都でもあでやかな姿を見せてくれています」
伊勢大輔という平安時代の女官が詠んだもので、百人一首の61番にも採られています。
「九重」は宮廷のことを指し、「八重」と対になっていて技巧的に優れていながら、意味もわかりやすいとても良い歌です。
彼女は藤原彰子に仕えていたので、紫式部の後輩にあたるのですが、この歌を詠んだときも紫式部がちょっと絡んでいます。そのときの風流な話をば。
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