明や朝鮮は唐入りをどう見てた?

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉の唐入りを明や朝鮮はどう見てた? 無謀というより異質で異様

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
秀吉の唐入りを明や朝鮮はどう見てた?
をクリックお願いします。

 

日本は中華秩序のいいところどりができる

こうした明による【中華秩序】は周辺国にどう受け止められたか?

上から目線で鬱陶しいものだったのか?

朝鮮半島に関していえば、明確にそうだと言えるでしょう。

韓流時代劇では、中国から官僚が乗り込んできて威張り散らし、朝鮮側がその理不尽さにウンザリさせられる描写はお約束。

ベトナムもそうであり、徴(チェン)姉妹や趙氏貞といった、漢族の支配に抵抗した人物は、国民的英傑と見なされています。

では日本はどうか?

地理的に海を隔てていることもあり、内政干渉もなく、非常に美味しい関係と言えました。

歴史から話は外れますが、春先に飛来する黄砂について、ウンザリさせられる方も多い一方、その副産物として海には豊富な栄養素がもたらされ、海産物の育成に大きなメリットがあります。

それと構図はよく似ていて、大陸から送られてくる文物は日本にとってメリットしかなく、政治に干渉しない【中華秩序】は美味しいことだらけでした。

例えば大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、そんな中華秩序のメリットが示される場面もあります。

西からやってきた、セレブ思考の強い北条義時の後妻・伊賀の方(のえ)。

彼女は、自身が産んだ子を義時の嫡男とすべく暗躍し、暗殺を画策したときの毒は【宋磁】の瓶に保管されていました。

中華の権威を象徴するものであり、対比として夫・義時に目をやると、酒席での彼は国産の素朴な酒器を用いていました。

宋との交易は、すなわち中華の権威を意味するものであり、鎌倉では大量の宋磁が発掘されています。

陶磁器に限らず、鎌倉大仏にしても「宋銭を鋳溶かして作り上げた」という説があるほど。実は、大仏に含まれる鉱物の割合が宋銭と非常に近いのです。

さらに『鎌倉殿の13人』では、日宋貿易をめざす源実朝の狙いを、北条義時が謀略を駆使して阻止していましたが、あれも中華権威を封じるためであったと読み解くことができる。

その辺の詳細については以下の関連記事をご覧いただくとして、

日宋貿易
銭を輸入すればボロ儲けで清盛ニヤニヤ~日宋貿易が鎌倉に与えた影響とは?

続きを見る

陳和卿
陳和卿と実朝が夢見た船は交易が狙いだった?由比ヶ浜に座礁した希望

続きを見る

鎌倉大仏
鎌倉大仏は誰が何のために作ったのか? なぜ外に座っているのか?

続きを見る

室町時代に話を進めますと、このとき中国王朝は明に変わっていました。

前述の通り、海禁政策が実施されるようになっていましたが、そこでぬかりなく交易によって権威を強化したのが、室町幕府3代将軍の足利義満です。

足利義満
足利義満の剛柔使い分けた政治・外交・軍事手腕が凄い!室町幕府三代将軍の実力

続きを見る

永楽帝の信頼をえた義満は【日本国王】に封じられ、【遣明使】も開始。

明の海禁政策により、他の勢力が貿易を封じられる一方、幕府は堂々と交易ができ、多大な利益を得られました。

その結果、室町幕府のさだめる武士の礼儀作法に中国渡来品を用いることも根付き、中華由来のセンスや教養を身につけることこそ、武士のステータスシンボルともされてゆきます。

勘合貿易(日明貿易)
勘合貿易(日明貿易)は最大利益20倍で爆儲け!だから倭寇も暗躍する

続きを見る

では、室町幕府の権威が低下した後はどうなったか?

勘合貿易】や【遣明使】が消えても権威は残り続けます。

例えば戦国大名の子息はお寺で教育を受けることが多いですが、当時の禅僧が明由来の漢籍教養を身につけていたというのも大きかった。

こうした流れを見てみると、日本における【中華秩序】の利用法がわかります。

鎌倉幕府にせよ、室町幕府にせよ、徳川幕府にせよ、日本を統一したら権威づけとして中国を用いる。

そんな構想から大きく逸脱していたのが豊臣秀吉です。

 

中華秩序に挑んだ秀吉

秀吉の特異過ぎる外交政策が露になったのは【九州征伐】の途中のことでした。

天正13年(1585年)に宗義調・義智を通して、【朝鮮通信使】の派遣を求めます。

いざ使節が来日すると、秀吉は朝鮮が服従したものと思い、これで一気に明国まで攻め入ることができると心を踊らせたのです。

秀吉は宣教師に対し、日本統一後の朝鮮と明支配の野心を語っていました。

さらには天竺(インド)、呂宋(ルソン)、高山国(台湾)の支配も視野に入れてたほど。

当時は倭寇の活動領域が拡大していて、航海技術も発達し、宣教師がもたらす情報から、日本にとっても急激に世界が狭くなり、外国が近く感じられるような状況です。

多種多様な情報と刺激を受けた秀吉の価値観が一変してもおかしくありません。

同時に秀吉の場合は、出自の影響も考えられます。

戦国大名の子息として、幼い頃から禅僧に学問を習っていれば『明を支配するなんてどうかしている……』と冷静になれたかもしれません。

しかし庶民層の出である秀吉は、そんな教育を受けていない。

まっさらなノートです。

中国由来の思想がほとんど刷り込まれていないところへ、宣教師から聞いた世界の情勢がインプットされる。

『MAGI』の描写はそうした史実を踏まえたものと考えることができるのでしょう。

戦国期の日本史&世界史を冷徹に楽しむためのMAGI(マギ)参考書籍

続きを見る

そして、肥前名護屋から朝鮮へ大軍を派遣。

当初は漢城(ソウル)を落とし、勢いよく平壌まで攻め込むものの、明から援軍が派兵されると、伸び切った戦線を保つことができず、すったもんだの交渉と戦闘が繰り返され、最終的には本人が病没。

秀吉の【中華秩序】に対する挑戦は失敗に終わるのですが……さて、残された者たちはどうしたのか。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家
-

×