北条時行

漫画『逃げ上手の若君』1~3巻/amazonより引用

源平・鎌倉・室町

史実の北条時行はどんな人物?漫画『逃げ上手の若君』のように戦い続けた?

2025/05/19

逃避行からの一発逆転――というのは歴史でもフィクションでも、古今東西、必ず盛り上がるシチュエーション。

これを何度も繰り返した人物がいます。

北条時行です。

週刊少年ジャンプの連載『逃げ上手の若君』における主人公であり、

『逃げ上手の若君』1巻(→amazon

このマンガで初めて時行の名を知った!という方も多いかもしれませんが、実は歴史の授業で何度かお目にかかっている可能性はあります。

鎌倉幕府が滅びた後【中先代の乱】を起こしたのが時行であり、教科書にもバッチリ載っているのです。

ただし、前後の流れや個人の一生については詳細が触れられないため、ほとんど印象に残っていないのも無理はないでしょう。

この方、なんともドラマチックな生涯を送った人なので、知らないままというのは勿体ないことです。

正平8年/文和2年(1353年)5月20日はそんな北条時行の命日。

鎌倉幕府(北条得宗家)の滅亡と南北朝時代という、大きな激流の中でもがきにもがいた生涯を振り返ってみましょう。

 


鎌倉幕府は滅亡 父の高時は殺され

北条時行は、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男です。

北条高時/wikipediaより引用

正慶二年=元弘三年(1333年)、新田義貞によって鎌倉が攻略されると、高時をはじめとした北条氏の多くが自刃。

このとき、高時の息子二人が密かに逃げていて、それが時行と、異母兄の北条邦時でした。

と言っても、二人一緒ではありません。

目立って捕縛されるリスクが高まるため、まず兄の邦時は、北条得宗家に仕える御内人(家臣)の一人・五大院宗繁に擁されて鎌倉脱出を図りました。

しかし、その宗繁に裏切られて新田義貞に捕まり、兄の邦時は処刑されてしまいます。

この裏切りは、当時の価値観でも相当な不正義と認識されたようで、「宗繁も処刑すべきでは?」という意見が多く義貞のもとへ寄せられ、処刑が決まりました。

往生際の悪いことに、宗繁はこの決定を知って逐電(逃亡)しています。

いったい何をしてんだか……人の口に戸は立てられませんし、”悪事千里を走る”とも言いますし……宗繁の裏切りはかなりの早さで広まったようで、逃げる先々で煙たがられ、最期は餓死したとも伝わります。

いずれにせよロクな死に方ではなかったのでしょう。

一方、時行は、これまた御内人の諏訪盛高(頼重)という人物によって、鎌倉脱出に成功しました。

盛高は、名字からも想像できるように、信濃の諏訪神党に属していた人です。

諏訪神党は、諏訪大社などの神職を務めている諏訪氏を中心とした武士集団であり、鎌倉時代中期から諏訪を領地としていた北条氏とは密接な関係にありました。それで助けられたんですね。

盛高が諏訪大社の大祝(神職のトップ)だったという説もありますが、定かではありません。

一種の聖域に匿われたことで時行は生き残り、しばらく身を潜めることになります。

 


関東申次だった西園寺公宗は不満タラタラ

ここで一旦、朝廷の話へ。

北条時行と関わってくる部分だけを簡略して触れておきたいと思います。

鎌倉幕府の滅亡は、朝廷にも様々な影響を与えました。

幕府との折衝を担当していた役職を”関東申次(かんとうもうしつぎ)”と言い、これを世襲していたのが西園寺家という公家です。

仕事相手が滅んでしまったのですから、同家にとっては大打撃。

ときの当主である西園寺公宗は不満をくすぶらせていました。

後醍醐天皇の皇后である西園寺禧子(きし/さちこ)が公宗の大叔母であったため、権大納言の官職を得られたものの、それでも不服を消し去るには至らない。

さらには以下のような事柄も、公宗にとっては面白くありませんでした。

・鎌倉幕府滅亡の数カ月後、元弘三年(1333年)秋に、禧子が亡くなってしまった

・新しく皇后になった珣子内親王(公宗のいとこ)の子供が皇女だった

・皇子ではなかったため天皇になる見込みもほぼ無く、外戚として勢力を強める可能性も消えてしまった

当時の皇室は、持明院統と大覚寺統の二つに皇統が割れていた時代です。

双方の出身者が交互に皇位を継承することで、どうにか平穏を保っていた南北朝時代の前夜であり、両統迭立とも言いますね。

珣子内親王は持明院統出身でしたが、大覚寺統である後醍醐天皇との夫婦仲は非常に良好。

出産までの安産祈祷は66回も行われたといいます。

後醍醐天皇は自身が阿闍梨(指南役・手本になれる僧侶)だったため、自ら祈祷したことまであったとか。

もしも珣子内親王が皇子を出産していれば、公宗はもちろん、足利氏や他の多くの武士、そして時行のその後の運命も――とにかく日本史全体がガラッと変わっていたかもしれません。

持明院統と大覚寺統、双方の血を引く皇子が天皇になれば、円満に両統の統合を進められた可能性もあるからです。

余談ですが、珣子内親王は父である後伏見上皇からも非常に愛されていたとか。

政治的な言動については少々疑問のある後醍醐天皇も、禧子や珣子内親王に対して良い夫だったとされています。

本人たちの関係が良好なのに、外部や過去の経緯が絡んでイザコザが続く……というのは、後世から見てもなんとも歯がゆい話ですね。

 

北朝の光厳天皇が即位

非常に危ういバランスで成り立っていた両統迭立による諸問題。

こうした状況の中で、西園寺公宗はなんとか地位を高めようとしました。

そして、北条氏の生き残りの一人・北条泰家を匿います。

彼は高時の弟ですので、北条時行にとっては叔父に当たる人物。鎌倉脱出に協力していたともいわれており、北条時行と公宗&上方との間に接点ができました。

公宗と泰家は、

「後醍醐天皇を暗殺し、持明院統の後伏見法皇を立て、その後新しい天皇に即位していただこう。我々はその後見となるのだ」

という計画を立てます。

ちょっと関係がややこしくなってきましたので、あらためて当時の皇統を整理しておきましょう。

前述の通り、当時の皇位は、持明院統と大覚寺統の二つの系統からおおむね交互に受け継いでいくことになっていました。

ですが、延慶元年(1308年)に大覚寺統の後二条天皇が急死したところから、少々イレギュラーが起きます。

後二条天皇の後は持明院統の花園天皇が皇位に就いたため、これまでの順番を守るのならば、後二条天皇の皇子が皇太子に立つべきでした。

しかしその該当者である邦良親王がまだ幼く、花園天皇が早く亡くなった場合の懸念が拭いきれません。

そこで、邦良親王の祖父(後二条天皇の父)だった後宇多天皇と、当時はまだ存在していた鎌倉幕府の間で、

「ならば、邦良親王が無事成人なさるまでの間に、”中継ぎ”として即位していただく方を、大覚寺統の中から選びましょう。後二条天皇の弟君である尊治親王がふさわしいのではありませんか」

ということになりました。

この”中継ぎ”として即位したのが、尊治親王改め後醍醐天皇です。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

そして文保二年(1318年)、後醍醐天皇が即位したとき、皇太子は邦良親王に決まりました。しかし……。

後醍醐天皇はその後、邦良親王への譲位を拒否。

そうこうしているうちに邦良親王が嘉暦元年(1326年)に病死してしまったため、順番が少々変わります。

当初の予定では、邦良親王が即位した際に、持明院統の後伏見上皇の皇子・量仁親王が皇太子になる予定でした。

しかし邦良親王が亡くなったため、後醍醐天皇が皇位についている間に、量仁親王が繰り上がる形になったのです。

そこまでは良かったのですが、その後、元弘元年(1331年)に元弘の乱(後醍醐天皇が倒幕を計画していたことが幕府にバレた事件)が起きてしまったものですから、さあ大変。

後醍醐天皇は【三種の神器】を持って御所から逃亡し、兵を募って倒幕を強行しようとします。

しかし、幕府軍を相手に敗北。

そのまま捕らえられ【承久の乱】の後処理にならって隠岐島へ流罪となりました。

ここで皇位継承に幕府も介入し、

「後醍醐天皇は廃位、量仁親王に即位していただく」

となって一旦決着。

量仁親王は光厳天皇として即位し、後伏見上皇が院政を行うようになりました。

 


後醍醐天皇を暗殺計画

光厳天皇の皇太子には、邦良親王の皇子・康仁親王が立てられました。

もともと後宇多天皇の意向で、

”後醍醐天皇はあくまで中継ぎであり、その息子たちには皇統を継がせない”

ということになっていましたので、後二条天皇の系譜に戻すのは当然のこと。

しかし元弘3年=正慶2年(1333年)、後醍醐天皇はまたもややらかします。

隠岐島から脱出し、京都に戻って

「光厳天皇の即位は認めない。私がこれから未来の先例となる新しい政治形態を作り、私の子孫が皇位を継いでいくのだ!」

などと言い出したのです。

かの有名な【建武の新政】、そして南北朝時代の始まりですね。

建武の新政
あまりにもお粗末な「建武の新政」公家からも物狂いの沙汰とディスられて

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こうして、後伏見上皇と光厳天皇は無理やり引きずり降ろされ……後伏見上皇が出家して法皇になったのはその後のことです。

本当に後醍醐天皇は凄まじくアグレッシブな方です。

しかし、後醍醐天皇に反感を持つ公家も少なくありません。

公宗の場合は先述の通り、別の理由も多々ありますが、”反後醍醐”な姿勢は同じであり、そこで立案されたのが後醍醐天皇の暗殺計画でした。

公宗は泰家から北条氏の生き残りについて詳しく聞いていたらしく、後醍醐天皇暗殺の後、誰をどこに配置するかまで計画していたようです。

その中で、東国の責任者候補として名を挙げられていたのが北条時行。

建武二年(1335年)6月に暗殺計画を実行しようとしました。しかし……。

暗殺の実行前に、後醍醐天皇へ密告した者がいました。

 

【中先代の乱】始まる

密告者は、西園寺公宗の異母弟・西園寺公重でした。

その結果、公宗は捕まり、出雲へ配流……される道中、名和長年によって処刑されたといいます。

名和長年/wikipediaより引用

確たる記録はないですが、おそらく時行も

「6月に後醍醐天皇を暗殺する」

という予定を知らされていたと思われます。

なぜなら暗殺失敗直後の7月、信濃で諏訪神党の援護を受けて時行が挙兵しているからです。

泰家が生き延びて北条氏の残党に連絡したともいわれていますが、当時の通信事情と出陣の早さを考えると、予め支度をしていたのではないでしょうか。

時行らは鎌倉奪還&幕府再興のため、信濃守護の小笠原貞宗を破り、鎌倉を目指して武蔵を南下しました。

【中先代の乱】の始まりです。

この時期、鎌倉には”鎌倉将軍府”という機関がありました。

【建武の新政】で作られた部署の一つで、その名の通り鎌倉将軍(征夷大将軍ではありません)を置き、東国を治めるという役割を担っています。

後醍醐天皇の皇子・成良親王を将軍としていましたが、この頃はまだ幼かったため、その補佐である足利尊氏の弟・足利直義が事実上の責任者でした。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

そのため、時行軍への対応も直義が行います。

時行軍の士気は高く、各所で直義軍を打ち破り、7月25日には鎌倉入りを果たしました。

直義は敗れながらも、成良親王と共に鎌倉を脱出し、足利氏の領地である三河に逃れ、上方の兄・足利尊氏に報告します。

連絡を受けた尊氏は、後醍醐天皇に時行の討伐を願い出たところ、なかなか許可が下りません。

業を煮やして8月2日に無許可のまま自ら三河へ向かい、直義と合流して時行との再戦を狙いました。

 

北条得宗家から冷遇されていた勢力が

鎌倉入りした北条時行は、問題を抱えていました。

時行を守り立ててきた人々は、北条得宗家の御内人が主です。

鎌倉へやってくるまでの間に、御家人だった人々も加わっていましたが、宗家ではなく傍流の人がほとんど。

では御家人たちの宗家にあたる人々はどうしていたのか?というと、鎌倉将軍府側……つまりは、時行の敵に回っていたのです。

これは「鎌倉幕府の旧臣全てが、幕府や北条氏の再興を願っていたわけではない」ということを意味します。

意地の悪い見方をすれば「鎌倉幕府が存在していた頃に実力を持てなかった人々が、時行の挙兵に乗じて政治の中心になろうとした」という状況でもあります。

皆さんご存じの通り、鎌倉幕府の四代将軍以降はほぼ全員がお飾りであり、北条氏が実質的な将軍といってもいいほど。

時行に味方して、再び北条氏の下風に立つのはあまり気が進みませんよね。

そんなことだったら、新しく作られる鎌倉将軍府、そしてその上にいる後醍醐天皇に引き立ててもらうほうが実利を見込める……そう考えるのも自然なことです。

そもそも、本来ならば幕府方で踏ん張っていてもおかしくなかった足利尊氏や新田義貞が倒幕側についたのも、北条得宗家から冷遇されていたのが一因。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用

源氏一門ですらそういう対応ですから、縁者でない御家人の扱いなど推して知るべしというものでしょう。

また、実は【中先代の乱】の他にも、鎌倉幕府の再興、あるいは【建武の新政】に反発した武士たちの反乱は度々起こっていました。

時期は鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(1333年)12月から建武二年(1335年)4月ごろまで、

・奥州
・北九州
・南関東
・日向
・紀伊
・長門
・伊予
・京

という非常に広い範囲で、北条氏の血を引く者や北条氏の被官だった人物が中心となり、兵を挙げていたのです。

後世から見ると公宗や時行が連携できていれば……と思ってしまいますが、当時の通信事情を考えると致し方ないでしょう。

時行が苦心する中、大勢を立て直した足利軍がやってきました。

もちろん、手をこまねいていたわけではありません。

時行は迎撃すべく兵を整えていたのですが、不運なことに、いざ出陣というところで大風が発生。

時行軍は鎌倉大仏殿で待機したものの、なんとその大仏殿が風で倒壊してしまいました。

鎌倉大仏殿は、たびたび自然災害によって破損したという記録があり、このときは時行軍に500余名もの死者が出たといいますから、相当規模の被害が出たのでしょう。

幸先が悪すぎますが、時行は諦めません。

彼の姿勢が兵にも波及したのか、尊氏軍との戦いでは善戦し、多くの損害を与えたとされます。

結果としては連戦連敗になってしまったため、時行は8月19日には鎌倉から撤退せざるを得なくなりましたが……こういった状況で自壊しなかったところからすると、時行の将器はなかなかのものといえるでしょう。

一方で、別の痛手もありました。

このとき、ずっと時行を庇護してきた諏訪頼重らが自害しているのです。

頼重は勝長寿院で尊氏軍相手に戦っていたと言われていますので、おそらくは時行を脱出させるための時間稼ぎという面があったのでしょう。

尊い犠牲のおかげで、時行は無事二度目の鎌倉脱出を成功させ、しばらく身を潜めることになります。

 

北畠顕家に尊氏追討を命じ

中先代の乱は、こうして足利尊氏の勝利で終わりました。

しかし、政治の混乱はまだまだ続きます。

というのも、この乱は建武の新政が始まった後、大雑把にいえば公家が重視されたため、相対的に武家が軽んじられていた時期です。

中先代の乱を成功させたことに対する恩賞も武士には期待できないわけで……尊氏は後醍醐天皇から離反することを決意。

帰京命令を無視して鎌倉にとどまり、新田氏の領地を勝手に没収するなどして、新たな武家政権の創設に向けて動き始めました。

これに対し、後醍醐天皇は奥州にいた鎮守府大将軍・北畠顕家に尊氏追討を命じます。

北畠顕家/wikipediaより引用

北畠顕家は『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男であり、公家です。

数え14歳で参議・公卿となり、おおよそ一年後には父と共に義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ下っていました。

そのため、彼の配下は奥州の武士たちが主体であり、中には結城氏や伊達氏など、戦国時代でも登場する家も含まれています。

その他、顕家について簡単にまとめると、

・東国の事情を自分の目で見ていて熟知

・後醍醐天皇への忠義に厚い

・さらには兵の指揮まで上手い

という、チートスペックの才人です。

今日ではあまり知られていない人物ですが、この時代が大まかな歴史区分では”武士の時代”とされているため、公家出身の顕家はスポットが当たりにくかったのかもしれません。

 

顕家と連携して

北条時行は建武四年=延元二年(1337年)7月、後醍醐天皇に許されて南朝方の一員となった後、この顕家と連携して動くようになります。

その際、時行は伊豆で挙兵していたので、おそらく中先代の乱以降はそのあたりに潜伏していたのでしょう。

伊豆は北条氏の出身地でもありますから、地元民からの協力が取り付けやすかったのかもしれません。

かつて自分の父や幕府を滅ぼした後醍醐天皇側につく……というのも少々不思議ですが、『太平記』では時行が以下のように主張していたということになっています。

「父・高時が滅ぼされたのは高時に非があったためであり、後醍醐天皇に恨みはない」

「尊氏は北条氏の厚恩を受けて今があるのに、敵対するのはそれに背く行為である」

「我が一族は尊氏と直義に恨みを晴らしたい」

もちろん『太平記』は物語であって史実をそのまま書いているとはいえませんが、当たらずとも遠からずといったところなのかもしれません。

同年12月、時行は顕家と共に鎌倉を奪還。

延元三年=暦応元年(1338年)1月も、引き続き上洛中だった顕家の配下として、美濃・青野原で北朝方の土岐頼遠軍と戦いました。

この時期、足利尊氏は北朝方についていたのですが、南朝方の新田義貞が北陸で勢力を回復しつつあり、顕家・時行軍への対応ができなかったのです。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用

この時点での大まかな構図としては、

【南朝】北条時行・北畠顕家・新田義貞・後醍醐天皇
vs
【北朝】足利尊氏・土岐頼遠・光明天皇

となります。

この戦は時行ら南朝方の勝利となりましたが、翌月【般若坂の戦い】では勝者と敗者が逆になり、形勢も逆転。

顕家は一旦引いて河内で大勢を整えたものの、同年5月に行われた【石津の戦い】で討死してしまいました。

このとき、南朝方の多くの武将も顕家と命運をともにしています。

北条時行は、生き残りました。しかし……。

 

10年以上歴史の表舞台から消え

再び身を潜めた北条時行は、その後、10年以上歴史の表舞台に登場しませんでした。

本当に執念がすごいですね。

次に彼の名が出てくるのは、正平七年(1352年)に【観応の擾乱】が起きてからです。

足利氏による内部分裂が起き、時行はこの機に乗じて鎌倉奪還を目指すこととしました。

新田義宗・義興といった新田義貞の息子たちと行動を共にして、鎌倉にいた尊氏の四男・足利基氏を破り、三度目の鎌倉入りを果たすのです。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用

しかし、このときも程なくして尊氏に奪い返されてしまいます。

そこで時行は、正平七年(1352年)閏2月23日に義興と共に相模へ行き、三浦氏に援軍を頼みます。

結果、義興と三浦軍vs尊氏軍の戦闘が起きました。

そして三浦軍が勝利を収めるのですが、時行がこの戦に参加していたかどうか、はっきりしていません。

義興といつまで共にいたのか?という点も不明で、翌正平八年/文和二年(1353年)、時行は鎌倉近辺で捕らえられたと言われています。

一年以上潜伏していたのか、それとも再起を狙って動き始めたところを見つかってしまったのか……。

同年5月20日、ついに時行は鎌倉近郊の龍口(たつのくち、藤沢市)で処刑されました。

ここは当時処刑場だった場所で、日蓮が処刑されかけた”龍ノ口法難”でも有名です。

文永の役の翌年にやってきた元の使者・杜世忠が斬られた場所でもあり、彼らの塚が近隣の常立寺に建立されています。

鎌倉幕府や関連人物にとっては、特に縁の深い場所といえるでしょう。

時行に関する塚や墓所などは、残念ながら現在まで伝わっていません。

室町幕府の目を気にしてのことなのか。

時行の場合、幼い頃に世話になった諏訪神党の人々や北畠顕家など、苦楽をともにしたといえる人が先に死んでしまっていたため、弔う人がいなかったのかもしれません。

得宗家に仕えていたとされる人々も、時行と一緒に処刑されてしまっています。

一方、ここまで逃亡と潜伏を繰り返した人ですので、やはりというか生存説が存在します。

それによると時行の息子が後北条氏の祖先だ……というところまで繋がるのですが、近年の研究では「後北条氏初代・北条早雲(伊勢新九郎)は備中の伊勢氏出身である」とほぼ確定したため、時行との関連は無いでしょう。

時行が処刑されたとされる場所は現在、龍口寺(龍口刑場跡)となっています。

北条時行終焉の地と伝わる「龍口刑場跡」(神奈川県藤沢市)

彼について思いを馳せたい方は、こちらを訪れてみるのがよいかもしれません。


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漫画『逃げ上手の若君1~3巻』(→amazon

【参考】
北条時行/国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
日本史史料研究会/呉座勇一『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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