明や朝鮮は唐入りをどう見てた?

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉の唐入りを明や朝鮮はどう見てた? 無謀というより異質で異様

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家康の課題

秀吉の失敗からどうにか信頼を回復させ、以前の中華秩序へ戻ること――それが徳川家康に突きつけられた課題のひとつでもありました。

明と国交を回復した徳川幕府は、徳川家光の時代に中国大陸の動乱に巻き込まれかけます。

明が滅んだ後、残存勢力が清王朝へ対抗すべく、日本に援軍を求めたのです(【日本乞師】)。

幕府はこれを断りつつ、亡命してきた明人は受け入れました。

水戸光圀は朱舜水に傾倒し、そこから【水戸学】の源流となる思想が生じていったとされます。

そうした縁もあってか、水戸藩では我々こそが中華の後継者であるという誇りが育まれていったとも……。

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いずれにせよ戦国時代までは禅僧を通し、武士や支配階級のものであった中国由来の知識は、江戸時代を通して日本に深く浸透してゆきました。

日本の【鎖国】が日本独自とされたのは、あくまでオランダ人の目線から。

【海禁政策】は【中華秩序】では標準的な考え方であり、明も、清も、朝鮮も、日本も、そのルールの中にいたのです。

 

時代によって変わる日中関係の評価

平和を迎えた江戸時代では、庶民が読み書きを覚え、その結果、大衆文化が花開きます。

政治批判を警戒した幕府は、安土桃山時代に実在する人名の使用を禁じていましたが、創作者たちはそうとわかるよう改名して規制をすり抜けていました。

例えば織田信長であれば「小田信永」といったように。

そんな中、スカッとする出世譚の『太閤記』は人気を博しました。

墨俣一夜城伝説なども愛されます。

しかし、文禄・慶長の役については、そうでもない。加藤清正の虎退治は愛されても、出兵そのものは肯定されていません。

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それが一転するのが、明治時代以降です。

徳川政権を倒したから、その敵だった豊臣政権を誉める――といった単純な逆張りではなく、アジア進出の先例として豊臣秀吉が持ち出されたのです。

儒教教育を受けてきた世代の多い明治時代前半は『あの大国である清に勝利できるのか……』と恐れる気持ちは強かった。

しかし【日清戦争】の勝利により、それが優越感へと変貌。

日本を最上位に置く【中華秩序】が現実化してゆきます。

これがなかなか倒錯したもので、中国の英雄まで自分たちのアイコンにするような、文化的なジャイアニズム(『ドラえもん』に登場する横暴なキャラ由来、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」に象徴される)が生じる。

日本人の愛唱歌に『星落秋風五丈原』があります。諸葛亮の無念の死を高らかに歌い上げたものです。

今の日本人からすれば、諸葛亮は中国の英雄で、日本でも人気があるという認識でしょう。

しかし、当時の人々は諸葛亮に大和魂を見出してしまった。

まったくもってワケがわかりませんが、日本人の心を感激させるなら、もうそれは大和魂を内包しているんじゃないか?アジアはひとつ、その頂点に立つのは日本人である――そんな倒錯した価値観に陥っていったわけです。

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そして福沢諭吉が掲げた【脱亜入欧】と、こうした日本式【中華秩序】のハイブリッド型思想が拡散し、ついには軍事行動が起こされますが、20世紀の日本も広大な中国大陸を支配しきる力を持ち合わせていません。

長引く【日中戦争】さらに【太平洋戦争】へと突入し、最終的に日本は、かつて経験したことのない壊滅的な犠牲を払うのでした。

そんな痛い目に遭ったのだから、豊臣秀吉なんて「絶対に真似してはならない」――というロールモデルになりそうで、実際はそうでもありません。

戦後の中華人民共和国は【文化大革命】といった政治的な混乱がありました。

一方で日本は新憲法のもと軍事費に国家予算を割くことを抑制しつつ、戦後復興と経済発展に注力。

経済大国となった日本は、アジアの大国という地位を手に入れました。

かつて軍事力で手にしようとしてできなかった日本を頂点とする秩序を、東アジアに築いたといえなくもない時代です。

しかし、その後は経済が停滞し、中国が伸びる時代が訪れます。現在でこそ、その中国も経済発展が足踏みするようになったとはいえ、文化外交面でも存在感が増しつつあります。

2022年から日本では、高校に「歴史総合」という科目が新たに設置されました。

従来の日本史と世界史だけではカバーできない範囲を補うものとして注目を浴びていて、近現代史が中心とはいえ、それ以前の歴史を考えなくてもよいわけではありません。

明治以降の日本が、なぜ豊臣秀吉をロールモデルとしたのか。

【中華秩序】から逸脱していたからこそ、そうなったのでは?

と、そこまで思考してこそ、歴史総合時代にも適した戦国時代の見方ができるのではないでしょうか。

アジアの中の日本を見つめ直すことで、理解が深まることもあります。

そうすることで、豊臣秀吉の外交がいかに異端であったかもご理解いただけるでしょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
岡本隆司『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』(→amazon
岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ 中国全史』(→amazon
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon

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