施薬院全宗

施薬院全宗/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉側近の戦国医師・施薬院全宗の生涯|大名の取次も務めた名医の実像

2024/12/10

慶長四年(1599年)12月10日は、医師の施薬院全宗が亡くなった日です。

いかにもお医者さんっぽい名字ですが、彼が働いていた所をそのまま取ったものなので、まぁ、当たり前ですね。

読みは「せやくいん」「やくいん」の両方あり、施設としては前者、名字としては後者で書いてあることが多いようです。

しかし彼は、最初から医師だったわけではありません。

人生の折り返し地点を過ぎてから、中年の星こと伊能忠敬と同じくらいの大転進をしています。

施薬院全宗/wikipediaより引用

その生涯を見て参りましょう。

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信長の比叡山攻めに影響された、かな?

全宗は平安時代の名医の末裔として生まれたと伝わります。

ですので最初から医学と無縁だったわけではないですが、全宗の時代には代々僧侶の家柄になっていたので、彼も一度仏門に入っていました。

確かに「全宗」だけ見ると何となくお坊さんっぽいですよね。

僧侶になった後は、しばらく比叡山にいました。

戦国時代でこの場所といえば当然、織田信長による比叡山焼き討ちですね。

信長比叡山を焼く『絵本太閤記』/wikipediaより引用

焼き討ちそのものの真相が不明なことも多く、全宗がこの件をどのように感じたのかはわかりません。

しかし、焼き討ちの後に還俗し、当時、名医として知られた曲直瀬道三(まなせどうさん)に弟子入りしたことは確かです。

さらに本能寺の変後、豊臣秀吉に庇護されるようになってからは比叡山の復興にも尽力。

戦国のビッグネームやビッグイベントとなかなかの割合で関連していた方なんですね。

 


秀吉のメセナ活動で薬草園の復興

その後、秀吉と知り合う機会を得た全宗は、そのまま豊臣秀吉の配下として働き始めます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀吉は、もともと番医(当直医)を複数名抱えて自身の健康に絶えず気を遣っており、全宗の仕事ぶりを気に入ると、重要な仕事を二つ与えました。

一つは、全宗の名字にもなった「施薬院」という施設の復興。

これは戦国時代からさらに昔、奈良時代の光明皇后(奈良の大仏を作った聖武天皇の皇后)が作らせた慈善施設の名前で、これまた世の乱れによりすっかり廃れてしまっていました。

西暦三ケタの時代に支配者層が慈善事業をしていたということは特筆すべきことだと思うんですが、世知辛いですね。

これを再建すべく、秀吉が「コイツにココ任せたいので、官位と昇殿のお許しをください」と朝廷にお願いし、「おk」との沙汰があったので全宗はこの大仕事に取り掛かったのです。

全宗自身の能力に加え、彼のご先祖様が元々施薬院のお偉いさんだったからという理由も大きかったようですね。

もう一つは、各所の大名の取次ぎ役でした。

 

政宗の文通相手(取り次ぎ)

大名の取次ぎ役ですから、もはや単なる当直医ではなく、秀吉側近の一人ですね。

もしかすると、こちらの方面で全宗の名を聞いたことがある方が多いかもしれません。

伊達家や佐竹家など、主に東国の大名が秀吉に交渉事をする際に全宗が窓口になっています。

彼らから「秀吉さんにこれこれお願いしたいんで口利きよろしく!」(超訳)な感じの手紙が来たり、秀吉に会うときの取次ぎなどをしていました。

こちらの役目に関するエピソードで有名なのは、やはりというか何というか伊達政宗とのやり取りです。

伊達政宗/wikipediaより引用

小田原への遅参といい、秀次切腹事件の巻き添えといい。

政宗は奥州からはるばる関東や京へ弁明に行くことが度々ありました。

そういうときは全宗のような窓口役にまず「この件について直接お話したいことがあるので来ました」と言って、秀吉へ取り次いでもらう必要がありました。

どんどん耄碌もうろくしていく秀吉とはいえ、天下人ですから当然あれこれ仕事があって忙しい。

しかも、怒らせてしまうような案件ともなれば「直接説明しに来ました!」といきなり来られても、余計に怒りが爆発してしまうわけで。

なので秀吉の機嫌と都合が両方折り合うようなタイミングで、話を持ちかけるのが取次役の仕事でした。

政宗の場合、ヘタすれば自ら火に油を注ぎそうな弁解をするので、全宗が肝をつぶすこともままあったようです。

その割に秀吉より一回り年上なのに二年長生きしていますから、全宗もなかなか頑健というか、御仏のご加護というか。

冒頭で触れた通り、慶長四年(1599年)12月10日に亡くなりました。

享年74(1522-1599)。

 

江戸時代には代々施薬院の仕事を受け継いだ

実子が早く亡くなってしまったため、全宗の血筋は残っていません。

しかし、養子になった人が代々施薬院の仕事(施薬院使)を受け継ぎ、施設と共に江戸時代を生き抜きました。

秀隆・宗伯・宗雅・宗園・安宗・宗策・宗寅・宗真・宗維・宗隆・宗顕と続いております。

明治時代に別の人が施薬院の再興をしているので、一度廃れているっぽいのですが……そもそも施設の名前=固有名詞でもないため詳細は不明です。

今は東大寺がこの名前のついた慈善団体を作っているので、寺子屋のように一般名詞化しているようです。

でも、こういう「はるか昔に端を欲するものが現代にもある」と見ると胸アツですね。全宗GJ。

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【参考】
国史大辞典
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon
宮本義己『戦国武将の養生法 (新人物文庫)』(→amazon
施薬院全宗/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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