慶長四年(1599年)12月10日は、医師の施薬院全宗が亡くなった日です。
いかにもお医者さんっぽい名字ですが、彼が働いていた所をそのまま取ったものなので、まぁ、当たり前ですね。
読みは「せやくいん」「やくいん」の両方あり、施設としては前者、名字としては後者で書いてあることが多いようです。
しかし彼は、最初から医師だったわけではありません。
人生の折り返し地点を過ぎてから、中年の星こと伊能忠敬と同じくらいの大転進をしています。
その生涯を見て参りましょう。
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信長の比叡山攻めに影響された、かな?
全宗は平安時代の名医の末裔として生まれたと伝わります。
ですので最初から医学と無縁だったわけではないですが、全宗の時代には代々僧侶の家柄になっていたので、彼も一度仏門に入っていました。
確かに「全宗」だけ見ると何となくお坊さんっぽいですよね。
僧侶になった後は、しばらく比叡山にいました。
戦国時代でこの場所といえば当然、織田信長による比叡山焼き討ちですね。
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焼き討ちそのものの真相が不明なことも多く、全宗がこの件をどのように感じたのかはわかりません。
しかし、焼き討ちの後に還俗し、当時、名医として知られた曲直瀬道三(まなせどうさん)に弟子入りしたことは確かです。
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さらに本能寺の変後、秀吉に庇護されるようになってからは比叡山の復興にも尽力。
戦国のビッグネームやビッグイベントとなかなかの割合で関連していた方なんですね。
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秀吉のメセナ活動で薬草園の復興
その後、秀吉と知り合う機会を得た全宗は、そのまま豊臣秀吉の配下として働き始めます。
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秀吉は、もともと番医(当直医)を複数名抱えて自身の健康に絶えず気を遣っており、全宗の仕事ぶりを気に入ると、重要な仕事を二つ与えました。
一つは、全宗の名字にもなった「施薬院」という施設の復興。
これは戦国時代からさらに昔、奈良時代の光明皇后(奈良の大仏を作った聖武天皇の皇后)が作らせた慈善施設の名前で、これまた世の乱れによりすっかり廃れてしまっていました。
西暦三ケタの時代に支配者層が慈善事業をしていたということは特筆すべきことだと思うんですが、世知辛いですね。
これを再建すべく、秀吉が「コイツにココ任せたいので、官位と昇殿のお許しをください」と朝廷にお願いし、「おk」との沙汰があったので全宗はこの大仕事に取り掛かったのです。
全宗自身の能力に加え、彼のご先祖様が元々施薬院のお偉いさんだったからという理由も大きかったようですね。
もう一つは、各所の大名の取次ぎ役でした。
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