どこの国でも、時折「ぶっ飛んだ決断と言動」をする人が登場します。
日本史では後醍醐天皇や織田信長、世界史ではヘンリー8世あたりがわかりやすいでしょうか。
今回は同じイギリスから、もう一人の「8世」に注目。
1936年12月11日はイギリス国王エドワード8世が、在位わずか325日で国王の座から退位した日です。
特に心身面で不調があったわけでもなく、ましてや暗殺などで殺されたわけでもないのに、なぜそんな短期間で……?
というと、ある女性との「恋」を選んだからでした。
「はぁ?」
物語じゃないんだから……とツッコミの声が聞こえてきますが、現実に起きた「王冠をかけた恋」として今なお語り草になっているのです。
彼が亡くなったのが1972年ですので、もしかしたらリアルタイムでニュースをご覧になられた方もいらっしゃるかもしれませんね。
あるいは、日本に来たときの「鎧姿」や「車夫」に扮したコスプレ姿がインパクトありすぎて!という方も……。
イケメンというだけでなく、なんだか風変わりなエドワード8世とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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いじめに遭っていた幼少期
エドワードは、ジョージ王太子(のちのジョージ5世)と王太子妃メアリーの間に長子として生まれました。
当時の王侯貴族によくあることで、しばらくは王室の中で家庭教師をつけられて育っています。
そして13歳で海軍兵学校に入ったものの、いじめにあって心に傷を残しました。
いじめた側の言い分は「将来『王様を蹴ったことがある』と自慢するため」という、実にしょうもないものだったそうです。
エドワードは深く傷つき、「自分には人の上に立つ資質がない」と思うようになってしまいました。
いじめた人は別の意味で歴史に影響を及ぼしましたね……。
1910年には祖父・エドワード7世が崩御し、父がジョージ5世として即位。
それに伴ってエドワードも王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)の称号を得ました。
1911年には海軍の少尉候補生となったものの、これはあくまで形式的な立場です。
翌年から1914年まではオックスフォード大学で学んでいました。
戦時中は王子として役目を果たす
1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、軍属のエドワードも従軍してフランスやエジプト、イタリアへ出征。
本人としては「一兵士として参加したい」と熱望していたようなのですが、陸軍大臣から
「王太子が捕虜になるようなことはあってはならない」
と大反対され実現していません。そりゃそうだ。
その代わりなのか、エドワードは可能な限り最前線の慰問を行い、兵士たちから人気を得ています。
この辺の言動からすると、決して気が弱いとか王族としての自覚がないわけではなさそうです。
戦後はカナダやアメリカ 、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどの連合国かつイギリスと縁の深い国々を訪れています。
日本を満喫した王太子
また、1921年に訪欧していた日本の皇太子裕仁(のちの昭和天皇)への答礼として、1922年にはエドワードが日本を訪れました。
イギリスの王族では以下の人々が訪日経験があったため、事前にいろいろ調べたり聞き知ったりしていたでしょうね。
ふたりともエドワードにとって大叔父(エドワード7世の弟たち)にあたる人たちです。
・アルフレート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公) 1869年訪日、1900年薨去
・アーサー(コノート公) 1890年・1906年・1912年・1918年訪日、1942年薨去
アーサーの訪日回数が多いのは、1902年に日英同盟が結ばれて密な関係になった事が影響しています。
当時のイギリス王エドワード7世の名代として訪れたためです。
エドワードは1922年4月に来日し、観桜会や鴨猟、靖国神社での玉串奉奠(たまぐしほうてん)などを経験しました。
また、東京の他にも京都や鹿児島を訪れ、前掲の通り、法被を誂えて人力車の車夫に扮装したり、武家風の着物と羽織や鎧兜を身につけてみたりと、日本を満喫したようです。
鎧姿の写真が特に楽しそうな表情に見えるんですが、明治政府的にはどうなんですかね……。
このくらいの時代になると、維新の中心となっていた元武士たちは既に鬼籍に入っていますので、問題なかったんでしょうか。
明治天皇も「古いものを全て否定する」タイプではありませんし。
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