山城の国一揆

応仁の乱(『真如堂縁起絵巻』)後に山城の国一揆へ/wikipediaより引用

合戦・軍事

戦国時代に三十六人衆を中心に独立「山城の国一揆」は誰に対して蜂起したものか

将軍・足利義教をぶっ殺したり(嘉吉の乱)。

京都を火の海にしたり(応仁の乱)。

はたまた将軍・足利義稙を京都から追い出したり(明応の政変)。

受験生にとっては「いい加減にせい!」とツッコミたくなるほどトラブル続きの室町時代は、リアルタイムで居合わせた人たちも、相次ぐバカさ加減に嫌気が差していました。

その例といえるのが数多の一揆でしょう。

特に、文明17年(1486年)12月11日に起きた【山城の国一揆】は、一揆側に道理があったとしか思えない大きな騒動となりました。

実は以前から、山城の土一揆(1477年)、徳政一揆(1480年)など、小さな規模のものは起きていたのですが、話題に上るのはほとんど【国一揆】のほうですよね。

「一揆」という言葉は、なんとな~く

【民衆がお殿様に対して暴動を起こした】

ようなイメージが多いかもしれませんが、山城の国一揆については少々事情が異なりました。

早速、見て参りましょう。

絵・小久ヒロ

 


畠山のゴタゴタ いつまでやっとんねん!

舞台は京都南部の南山城(みなみやましろ・城ではなく地方です)。

朝廷や幕府からほど近いこの地に、はた迷惑な客が長居していました。

その名は畠山氏。

本来ならば室町幕府における「三管領」の一角であり、一揆を取り締まる側だったはずの人たちです。

彼らは【応仁の乱】と【文明の乱】の主要な一因ともなった、

畠山政長
vs
畠山義就

らの家督争いを未だに続けており、この年の10月から宇治川を挟んでにらみ合いを始めました。

これがなんと60日間も続いています。

畠山義就『続英雄百人一首』/wikipediaより引用

戦は、ただでさえ地元民にとって大迷惑なことですが、このときはあまりにも長過ぎる対陣に国人たちがキレました。

国人とは、幕府や朝廷から任じられた領主ではなく、元からその土地に住んでいて力を持った人たちのことです。

現代風にいうなら「地元の名士」というやつです。

国人から出世した有名な例としては、毛利元就などがいますね。

あるいは大河ドラマになった井伊直虎とか。

両者ともにこの時点ではまだ生まれていませんが。

 


幕府はアテにならず 自分たちで守るしかない

現代の選挙でも地域コミュが大切なように、当時の守護大名は国人たちとうまくやっていくことが重要でした。

逆にいうと、

「国人と仲良くできない守護は、いずれ反感を買って閉め出され」

てしまいます。

特に【応仁の乱】が起きた後ぐらいからは、国人たちもこう考えるようになりました。

『もう中央から来るお偉いさんはアテにならないし、かえって生活を苦しめられる。なら、俺達が団結して土地と家族を守ったほうが良い』

正論すぎてぐうの音も出ませんね。

 

 

山城の国一揆の場合は、上は60歳、下は15~16歳の国人たちが文明十七年の年末に集まって宇治・平等院で会議を開き、

「畠山氏の軍をまとめて追い出そう!」

「「「賛成!!」」」

という採決となりました。

そして両畠山軍にその旨が通達されたのです。

 


引くに引けない畠山 ならば追い出せ

内容は記録によって多少バラつきがあります。

ザックリ言うと

「畠山氏はもうウチらのことに手も口も出すな! こっちくんな! ここらはこれから、俺たち自身で治めていくんだからな!!」

という感じですね。

一体どんだけ嫌われてるんだ……と呆れるのもムリはなく、この時点で畠山氏は20年ぐらいゴタゴタしてました。こりゃムカつきますわな。

もしも幕府が力を保っていれば、国人たちも訴えるなどして正当な手段に出たかもしれません。

ところが国人から通達がくだされた畠山では、義就軍も政長軍も退けなくなっておりました。

なんせ撤退戦は基本的に難しいものです。

先に動いてしまえば、背後を突かれてボロ負けする可能性があります。

なので仕方ないといえば仕方ないのですが……国人衆にとっては、イライラが極まる状態でしかありません。

国人側は交渉と多少の実力行使を重ねます。

そして何とか、宇治から義就軍と政長軍の両方を追い出すことに成功したのでした。

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