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【塙団右衛門(塙直之)】
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抜け駆けされたと知ってブチ切れ!
1615年の大坂夏の陣――。
その前年(1614年)の大坂冬の陣により、大坂城は堀を埋められた裸状態となっており、籠城には耐え難い仕様となっておりました。
徳川家康としても無駄な損耗を重ねるより「もう戦いにならんから降参せい……」と思っていたかもしれません。
が、大坂方の武将たちは、城を出て戦う覚悟を決めます。
4月28日、大野治房12,000の軍の一角を形成していた団右衛門は、3千の兵を引き連れ南へと進んでおりました。和歌山からやってくる浅野長晟(ながあきら)の軍と迎え撃つためです。
浅野長晟の浅野家は、豊臣政権の中でも特に秀吉に目をかけられた家です。
長晟の父・浅野長政は、五奉行の中でも筆頭の武将として知られていました。
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それが関ヶ原の戦い以降は徳川方に付いており、大坂の陣においても、豊臣秀頼からの再三にわたる支援要請を断っていたため、大坂方からは特に睨まれていた存在です。
言うなれば“見せ場”十分の場面。
団右衛門は、大野治房軍の先鋒として武名をあげようと意気込んでいました。しかし……。
白地に墨で【塙団右衛門直之】
岡部則綱(岡部大学)が抜け駆けしたとの情報が入ってきます。
これにブチ切れてしまった団右衛門。あろうことか馬に鞭打ち、一騎駆してしまうのです。
対する浅野長晟軍は5,000からの兵を引き連れた大軍です。
その中に単騎駆で突入すればどうなるか?
火を見るより明らかな結果は、和泉樫井村あたりで起きました。
敵陣に突入した団右衛門は、弓で射抜かれ、槍で刺され、あっけなく討ち取られてしまったのです。
ちなみに、この一騎駆けしたときも白い布に墨で書いた
【塙団右衛門直之】
という差物を背負っていたようです。
最後まで“らしい”生き方でした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「塙直之・長宗我部盛親」』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
塙直之/wikipedia