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【秀吉の成金趣味】
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【茶の湯】黄金の茶室こそ秀吉だ!
そんな隣国のお茶事情は日本にも大きな影響を与えます。
抹茶という飲み方がなくなったことで、中国茶の茶碗は小型化。煎茶が正式な飲み方のため、茶漉し付きのマグもできました。
中国式の茶の飲み方は、明代以降に高まりますが、明代は【倭寇】の時代でもあります。
朱元璋はグローバル化や国際貿易も嫌っていましたので、民間貿易を敵視していました。
永楽帝時代こそ【勘合貿易】は成立しましたが、それも崩れてしまうと日本と明は周辺国を巻き込みながら、グローバル密貿易集団【倭寇】への取引へ移行。
銀の貨幣も日本へ流通してきましたが、明の銀採掘量では全く足りない。
一方、日本では、朝鮮から銀の採掘技術が伝わり、シルバーラッシュが興ります。
そんな折、平清盛の【日宋貿易】以来となる銅銭が中国から日本へ――かくして需要と供給が合致!
・日本産出の銀→明へ
・明製造の銅銭→日本へ
これはもう密貿易でも何でも取引しないわけにはいかない。
【倭寇】に関わる人々は日明ともにルール無用でした。
そもそもは明朝による無茶な海禁政策のせいとはいえ、倭寇に関わる連中が不真面目であったことは確かで、これは貿易内容にも反映されます。
不法貿易上等!だった明の商人はこう考えた。
「需要がないから、抹茶用のデカい茶器が売れないんだよ。おかずを入れるのには小さすぎるし、茶や飯にはでかい……そうだ、日本人なら買ってくれるんじゃね?」
本国で売れない商品を日本で売る――ある意味、ぼったくりビジネスですが、現にいいものが日本にたくさん伝わった。
本国にはない変わった茶器が日本で大事にされ、そうした商品を扱う堺の商人が心清らかなわけもありません。
例えば今井宗久だって、茶器だけでなく鉄砲も売り捌いています。死の商人という一面があった。
信長に重宝された堺の大商人・今井宗久~秀吉時代も茶頭として活躍したその生涯
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しかし、彼らと天下人の結びつきによって、茶の湯が進化したのも事実。
朱元璋と出自の低さは似ていても、趣味は正反対でド派手LOVEだった秀吉は、茶道のカリスマ千利休と手を組み、新たなトレンドを生み出してゆくのです。
千利休の茶道といえば、わびさびが出てきます。
日本人の心性とも結び付けられますが、果たしてそう単純なものなのか?
千利休はなぜ理不尽な切腹を命じられたのか茶聖と呼ばれた秀吉の懐刀
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それを否定しているのが他ならない秀吉です。
黄金の茶室――あきらかに異質であり、
豪華という言葉を超えて、何か理解し難い業のようなものすら感じませんか?
戦国武将が茶の湯を好んだ意義として、狭い場で密談ができたという説もありますが秀吉はそうではない。
彼はしばしば大茶会を開催しました。
高級品である砂糖を用いた菓子。
豪華な衣装を身につけた秀吉の妻妾たちが居並ぶ茶会。
その絢爛豪華さは、まさに新時代が訪れたといえます。
しかし、そんな豪華な大茶会は、江戸時代以降の日本で継承されたのか?
確かに茶道は残りました。でも一般社会はそうではありません。誰かの家を訪問し、お茶が出されるとき抹茶というケースはほぼ無く、一般的には煎茶でしょう。
煎茶は江戸時代、明の禅僧・隠元によって伝えられ、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶・月海によって全国へ広められました。
茶道の抹茶と、庶民も飲む煎茶。
こうした歴史を経て、今では日本でも煎茶が主流となっているのです。
太閤の栄光は浪速に残され
秀吉の趣味は、他の大名とは異なる傾向があります。
いずれも晩年からハマった――そんな風に表現されたりしますが、低い身分から天下人となったこその話。
黒田官兵衛のように、生粋の武士ならば若い頃から連歌を親しむこともできます。
しかし出自が低く、武士としての出世街道を駆け上がるのに必死だった秀吉は、天下人になってから初めて趣味を楽しめるようになったのです。
そしてその趣味は、権力者としてのパフォーマンスにも結びつきました。
ともかくド派手で大掛かり。
権力も付き纏うせいか、千利休のような犠牲者まで出した。
はたから見れば危うい状況でもあり、徳川家康とその後継者たちは派手なパフォーマンスとは距離を置いたようにも思えます。
結果、江戸時代以降の日本文化は、為政者の権威ではなく、民衆の力で広まってゆきました。
前述の通り、民衆による歌舞伎や、黄檗宗(おうばくしゅう)による煎茶道など。非常に有意義ではありますが、ド派手で煌びやかな権力パフォーマンスと比較すると少し寂しいのかもしれません。
だからでしょうか、江戸時代になっても庶民は『太閤記』を読み継ぎ、派手な秀吉像を受け継いでゆきました。
そして江戸時代を終え、明治時代ともなれば堂々と秀吉を褒め称えることができます。
その例が、成功した商人を指す「今太閤」という言葉でしょう。
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奇しくも二人は「今太閤」「女今太閤」と称され、関西有数の実業家として今なお尊敬の念を集めています。
江戸時代の長い支配を経ても、大阪にはド派手なエンターティナーを繰り広げる豊臣秀吉の姿が記憶の中に残っていたのかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
他