人心が荒廃し、略奪や殺戮の横行した戦国時代。
そんな時代だからこそ趣味や教養などの文化面で造詣を深める戦国武将や大名がいる一方、ド派手なパフォーマンスで政治利用する天下人もいました。
豊臣秀吉です。
秀吉の文化活動と言えば、例えば黄金の茶室をはじめとした、いかにも成金趣味全開の酷いシロモノ。
大河ドラマ『どうする家康』で演じるムロツヨシさんも、かなり派手なイメージがあり、
「ほんまにゲスい奴やでwww」
と笑いたくなるかもしれませんが、果たしてそんな単純なものでしょうか?
例えば、当代きっての教養人であった細川藤孝は、かくの如く語っています。
歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ
意味としては
「和歌や連歌、乱舞、茶の湯を嫌う人って、育ちのほどがわかっちゃいますよねえ、オホホホ」
ってことですが、我々、庶民からしたらどうでしょう?
この細川藤孝に対しては、憧れるというより「はいはい、あんたは高貴ですよ、リッチなご趣味があってよござんすね」と、嫌味の一つでも言いたくなりません?
ましてや同じ時代を生きた秀吉は、かなり低い身分の出であり、そんな素養もないままに天下人まで未曾有の出世を成し遂げた人物です。
幼少期だけでなく青年期においても、趣味に興じる時間などなく、生きるのに精一杯。
それでも天下人になったからには、粗野なままでもいられない。
そこで秀吉はどうしたか?

豊臣秀吉/wikipediaより引用
本記事では、成金と嘲笑されがちな豊臣秀吉の趣味や教養について考察してみたいと思います。
【湯治】実は戦国武将の定番
日本全国には、戦国武将ゆかりの温泉地が多数あります。
彼らはなぜ温泉を愛したのか?
実は私、身をもって体験したことがあります。
とある温泉へ向かう途中、転んで足を痛めてしまい、片足を引き摺りながらたどり着き、どうにか風呂に浸かることができました。
それが帰り道では、すっかり痛みが引いており、派手に転んだことが嘘のように歩けたのです。
実際にどれだけ効果があるのか――医学的見地からの見立ては不明ですが、メンタル面にも良き方向へ働くなら、傷ついた将兵が温泉に入るのも納得だと感じたものです。
天下人になった秀吉にとっても温泉は、楽しみの一つだったのでしょう。
天正17年(1589年)の【小田原攻め】では北条軍を囲みながら、なかなか派手にエンジョイしています。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
なんせ相模国には箱根温泉があります。
蛇骨川(じゃこつがわ)の川原に湧く古くからの名湯、秀吉はここに石風呂を作り、将兵と共に湯治を楽しみました。
淀の方も、徳川家康も、伊達政宗も、続々と集まり、快適な湯を楽しみ、現在も「太閤石風呂」や「太閤の滝」として観光スポットになっています。
実はこのとき、上野国(群馬県)の草津温泉にも立ち寄る予定だったようですが、実現しませんでした。

箱根にある太閤石風呂
また、秀吉と温泉といえば、有馬温泉も有名です。
天下取りを果たすと度々この地を訪れ、湯治だけでなく、飲んで歌ってはしゃいだと目されています。
なぜならこの温泉遊びに「湯女」という女性たちを用意させました。
白い衣に紅袴をつけ、音楽を奏で歌い、和歌を詠み、垢をすり、性的な接待をする役目があった――そんな伝統の中には、天下人・秀吉の姿もあるということになります。
日本各地に武将ゆかりの温泉地はありながら、ここまで明るくあけっぴろげなのは秀吉ならではの現象かもしれません。
【鷹狩り】派手なパフォーマンス
大河ドラマ『どうする家康』では、本多正信が鷹の世話に勤しむシーンがありました。
あれは完全な創作でもなく、正信は実際に鷹匠をしていたともされます。
では、まだ織田家中にいた頃の秀吉にとって、鷹狩りとは如何なる存在だったのか?というと、コンプレックスの要素もあったかもしれません。
鷹狩りは大名など富裕層の趣味であり、後に秀吉も日本全国から優れた鷹をコレクションすることに喜びを見出していたようです。
当時の秀吉は関白になるため近衛前久の養子にもなりましたが、前久は鷹に詳しい人物ですから、その影響を受けたとしても不思議ではないでしょう。

それは政治にまで影響があり、天正15年(1587年)には、こんな保護政策まで打ち出されました。
・鷹が巣を作る山を管理する
・鷹の巣を発見したら褒美がある
・逆に壊すような真似をすれば処罰する
鷹は、奥羽の大名とも関わりが深いものです。
古くから名産地として知られ、伊達家など地元の大名にとっては贈り物の定番。
実際【奥羽仕置】のときにも、各地の名鷹( めいよう ) を確保し、献上するよう命じていました。
そして、この鷹狩りにおいても、秀吉らしいセンスは発揮されています。
派手な輿に乗り、美麗に着飾った供を引き連れてゆくだけでなく、鷹や猟犬まで飾り立てる。
それだけに飽き足らず、獲物を誇示するように、狐、鹿、猪、ウサギといった動物を棒につけて担いだと言います。
さらには亀や猫まで吊るしたともされ、もはや狩りを超えた何らかのパフォーマンス。
むろん秀吉独特の演出でしょう。
江戸時代における将軍の鷹狩りは、ここまで派手ではありませんでした。
【能楽】自ら楽しんだ最先端エンタメ
戦国武将と「能」といえば?
真っ先に思い浮かべるのは織田信長でしょう。

織田信長/wikipediaより引用
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり――
と、謳われながら舞う『敦盛』は、マンガや映像作品でも定番のシーンであり、信長のクライマックスとして欠かせないものです。
しかし、こと「能楽へ与えた影響」という視点で見れば、秀吉のほうが大きいかもしれません。
なぜなら秀吉は、能を個人的に楽しむだけでなく、スポンサーや制度を整え、社会的地位の向上にも貢献したのです。
単なる善意だけでなく、そこには“天下人”としてのアピールも多分にあったでしょう。
能が生まれた地とも言える大和国を支配すると、能楽の大和四座(金春・金剛・宝生・観世)に扶持米を与えて庇護しました。
かくして、戦乱の世で衰退していた能は息を吹き返し、秀吉自身も特に「金春流」を熱心だったと伝わります。
朝鮮出兵の際は、本陣の名護屋でも能楽を開催したほど。
秀吉は
・衣装や能面を豪華にする
・巨大な能舞台を大坂城におく
といった取組を進めただけでなく、自身の人生を能にした『豊公能』まで作らせたというのですから超本気!
現代で言えばテレビや舞台のプロデューサーってところでしょうか。

厳島神社の能舞台
こうした権力者による娯楽愛好は、中世から近世への移り変わりにおいて、世界史でも大きな役割を果たしています。
例えばイングランド。織田信長と同年代のエリザベス1世の大々的な後援を受け、シェイクスピアがイギリス定番の演劇となりました。
フランスの太陽王ことルイ14世は、自らバレエの舞台に立って踊る王。
清朝の歴代皇帝は京劇を愛し、脚本を書き、舞台に立ったこともあるとか。
一方の日本では、豊臣から徳川への政権移譲により、この流れに断絶が生じます。
家康も秀忠も能を好んだことは確かですが、それよりも庶民の間では阿国から始まる歌舞伎が急速に広まりました。
奈良が中心地である西の能楽は伝統の中にとどまり、江戸の歌舞伎は時代と共に発展。
現代においても『刀剣乱舞』や『鬼滅の刃』は歌舞伎になりますが、能楽ではそう簡単にはいきません。
もしも秀吉が歌舞伎にハマっていたらどうなっていたか?
当時からとんでもなく派手なことになっていた可能性は十分にありえますね。
中国では消えたが日本では残っていた
明治時代に入り、清からやってきた留学生は、来日と同時に様々なことに驚きました。
「本国ではとっくに消えたものが、日本で残っているではないか!」
と、驚きながら本国へ報告した文物が数多あり、例えばその一つ『水滸伝』に注目してみましょう。
本国では、金聖嘆が後半を打ち切ったバージョンにより上書きされた状況であり、
「俺たちの戦いはまだまだ続く!」
というのが終わり方だと思っていたら、本来のバッドエンドバージョンが日本で見つかったのです。
馮夢竜の『白蛇伝』も、後世、他の作家による改訂版が流通していたため、本国では原本が失われていました。
それが日本で発見されています。
実は現在でも同様の現象は見られます。
例えば下駄――昔は中国でも日本でもごく当たり前に履いていましたが、いつしか靴にとって代わられ、消えていった。
それが日本では今でも夏祭りや花火大会となれば浴衣に下駄を履いた人々が現れ、その姿を見た中国人が「なんでこんないいものをなくしてしまったんだよ!」と嘆く人も少なくないとか。

抹茶もそうです。
飲むだけでなく、料理やお菓子にも使えるのに、なぜ、こんな良いものが中国では無くなってしまったのか、復活させるべきではないか、という声も高まっています。
◆ 抹茶ブームが日本から中国に逆輸入 茶の湯文化の復活もなるか(→link)
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日本に抹茶が根付き中国で廃れた意外な歴史~全ては栄西と源実朝から始まった
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では、なぜ中国では抹茶が廃れたのか?
これには諸説ありますが、元から明へ王朝が交代した際、初代皇帝の太祖洪武帝朱元璋が禁じたことが大きいとされています。
庶民から皇帝にまで成り上がった朱元璋は、その出生から豊臣秀吉と比較されることも多い。
サモ・ハン・キンポーが朱元璋を演じた映画の邦題は『デブゴン太閤記』でした。デブゴンとはふくよかな肉体のドラゴン、カンフーの達人という意味です。

朱元璋/wikipediaより引用
そんな朱元璋は、インテリ知識人、モンゴル風の風習、グローバル化、贅沢といった風潮がともかく嫌いで、抹茶禁止令にもそんな彼の意向が反映されたのでは?と指摘されています。
「抹茶は金粉を入れたりして、わけわからん高級志向があるからけしからん!」
「抹茶はラテっていうの? 牛乳に入れて飲むやり方あるでしょ。そういう漢族っぽくない飲み方をするからダメ、気に入らんわ!」
チャラついたトレンドを嫌う頭の固いおじさん思考という感じですが、皇帝ですから誰も反論できません。
結局、朱元璋の後の時代は、飲み方を進歩させながら、茶葉はどんどん高級化してゆきました。
【茶の湯】黄金の茶室こそ秀吉だ!
そんな隣国のお茶事情は日本にも大きな影響を与えます。
抹茶という飲み方がなくなったことで、中国茶の茶碗は小型化。
煎茶が正式な飲み方のため、茶漉し付きのマグもできました。
中国式の茶の飲み方は、明代以降に高まりますが、明代は【倭寇】の時代でもあります。
朱元璋はグローバル化や国際貿易も嫌っていましたので、民間貿易を敵視していました。
永楽帝時代こそ【勘合貿易】は成立しましたが、

永楽帝/wikipediaより引用
それも崩れてしまうと日本と明は周辺国を巻き込みながら、グローバル密貿易集団【倭寇】への取引へ移行。
銀の貨幣も日本へ流通してきましたが、明の銀採掘量では全く足りない。
一方、日本では、朝鮮から銀の採掘技術が伝わり、シルバーラッシュが興ります。
そんな折、平清盛の【日宋貿易】以来となる銅銭が中国から日本へ――かくして需要と供給が合致!
・日本産出の銀→明へ
・明製造の銅銭→日本へ
これはもう密貿易でも何でも取引しないわけにはいかない。
【倭寇】に関わる人々は日明ともにルール無用でした。
そもそもは明朝による無茶な海禁政策のせいで密貿易するしかなかったとはいえ、倭寇に関わる連中が不真面目であったことは確かで、これは貿易内容にも反映されます。
不法貿易上等!だった明の商人はこう考えた。
「需要がないから、抹茶用のデカい茶器が売れないんだよ。おかずを入れるのには小さすぎるし、茶や飯にはでかい……そうだ、日本人なら買ってくれるんじゃね?」
本国で売れない商品を日本で売る――ある意味、ぼったくりビジネスですが、現にいいものが日本にたくさん伝わった。
本国にはない変わった茶器が日本で大事にされ、そうした商品を扱う堺の商人が心清らかなわけもありません。
例えば今井宗久だって、茶器だけでなく鉄砲も売り捌いています。死の商人という一面があった。

今井宗久/wikipediaより引用
しかし、彼らと天下人の結びつきによって、茶の湯が進化したのも事実。
朱元璋と出自の低さは似ていても、趣味は正反対でド派手LOVEだった秀吉は、茶道のカリスマ千利休と手を組み、新たなトレンドを生み出してゆくのです。
千利休の茶道といえば、わびさびが出てきます。
日本人の心性とも結び付けられますが、果たしてそう単純なものなのか?
それを否定しているのが他ならない秀吉です。
黄金の茶室――あきらかに異質であり、

復元された豊臣秀吉の「黄金の茶室」
豪華という言葉を超えて、何か理解し難い業のようなものすら感じませんか?
戦国武将が茶の湯を好んだ意義として、狭い場で密談ができたという説もありますが、秀吉はそうではない。
彼はしばしば大茶会を開催しました。
高級品である砂糖を用いた菓子。
豪華な衣装を身につけた秀吉の妻妾たちが居並ぶ茶会。
その絢爛豪華さは、まさに新時代が訪れたといえます。
しかし、そんな豪華な大茶会は、江戸時代以降の日本で継承されたのか?
確かに茶道は残りました。でも一般社会はそうではありません。
誰かの家を訪問し、お茶が出されるとき抹茶というケースはほぼ無く、一般的には煎茶でしょう。
煎茶は江戸時代、明の禅僧・隠元隆琦によって伝えられ、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶・月海によって全国へ広められました。

隠元隆琦/Wikipediaより引用
茶道の抹茶と、庶民も飲む煎茶。
こうした歴史を経て、今では日本でも煎茶が主流となっているのです。
太閤の栄光は浪速に残され
秀吉の趣味は、他の大名とは異なる傾向があります。
いずれも晩年からハマった――そんな風に表現されたりしますが、低い身分から天下人となったこその話。
黒田官兵衛のように、生粋の武士ならば若い頃から連歌を親しむこともできます。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
しかし出自が低く、武士としての出世街道を駆け上がるのに必死だった秀吉は、天下人になってから初めて趣味を楽しめるようになったのです。
そしてその趣味は、権力者としてのパフォーマンスにも結びつきました。
ともかくド派手で大掛かり。
権力も付き纏うせいか、千利休のような犠牲者まで出した。
はたから見れば危うい状況でもあり、徳川家康とその後継者たちは派手なパフォーマンスとは距離を置いたようにも思えます。
結果、江戸時代以降の日本文化は、為政者の権威ではなく、民衆の力で広まってゆきました。
前述の通り、民衆による歌舞伎や、黄檗宗(おうばくしゅう)による煎茶道など。非常に有意義ではありますが、ド派手で煌びやかな権力パフォーマンスと比較すると少し寂しいのかもしれません。
だからでしょうか、江戸時代になっても庶民は『太閤記』を読み継ぎ、派手な秀吉像を受け継いでゆきました。
そして江戸時代を終え、明治時代ともなれば堂々と秀吉を褒め称えることができます。
その例が、成功した商人を指す「今太閤」という言葉でしょう。
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奇しくも二人は「今太閤」「女今太閤」と称され、関西有数の実業家として今なお尊敬の念を集めています。
江戸時代の長い支配を経ても、大阪にはド派手なエンターティナーを繰り広げる豊臣秀吉の姿が記憶の中に残っていたのかもしれません。
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【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
他








