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【堀尾吉晴と松江城の人柱伝説】
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城の縄張り位置を巡って親子どっちも引かず
堀尾吉晴と息子の堀尾忠氏は、比較的仲の良い親子だったらしく、松江に移ってからは協力して内政にあたっています。
唯一、モメたのは城を建てる場所でした。
当初、堀尾親子はかつて尼子家の本拠だった月山富田城に入ったのですが、ここは「天空の城」と呼ばれるほど峻険なところだったため、もっと開発しやすいところに新しい城を建てることになります。
もちろん幕府にはきちんと届出済みです。
しかし、どこに建てるかという点に関してだけは二人とも意見を譲らず、もめにもめたのです。
場所が決まってなくても許可取れるってところが厳しいんだかテキトーなんだかわかりませんね。
トーチャンは「せっかく建てるんだから、将来人が増えたときのことを考えて広い場所がいいだろ!」と言い、息子は「父上のお考えはもっともですが、そこは広すぎてお金がかかりすぎます!」と反対したのだそうで。
どちらも一理あるだけに、話し合いが困難を極めたことは想像に難くありません。
神社の神域に立ち寄った直後、忠氏が急死
忠氏は困り果て、領内のあちこちを見回って、新城にふさわしい場所を探すことにしました。
おそらく父の推す場所よりはお金がかからず、それでいて広さも十分な場所を求めていたのでしょう。
そして視察の最中、神魂神社(かもすじんじゃ)に立ち寄ったのですが、これがよくありませんでした。
お参りをしたのが悪いわけではありません。
神主に「ここの奥にあるあやめ池を見せていただきたい」とお願いしたのがマズかったのです。
現在は自然観察園になっているそうですが、当時は神域ということで立ち入り禁止。そのため神主が断っても、忠氏がどうしても見たいと言って聞きません。
平和な時代の殿様ならともかく、戦国時代の人がただの物見遊山にそこまで執着するとも考えにくいですし、もしかしたら「城の場所について、神のご意見を伺いたい」とでも思っていたのかもしれませんね。
とにかく忠氏はしつこくお願いを繰り返し、神主は根負けしてあやめ池への案内を務めました。
しかし神主は、畏れ多いと感じたのでしょう。
途中まで案内したものの、そこから先は忠氏を一人で行かせたそうです。
そして忠氏は無事あやめ池を見ることができた……のですが、皆の待っている神社まで戻ってきたときには、顔が紫色になっていたとか。
見ちゃいけないものとか聞いちゃいけないナニカに接してしまったんですかね。
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