こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【堀尾吉晴と松江城の人柱伝説】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
吉晴が孫の忠晴の後見人となり、藩を一時
忠氏が、何とか月山富田城まで戻ってくると、そのまま床に就き、27歳という若さで父に先立って亡くなりました。
新城の場所でもめていなければ、息子がこんなにも早く死ぬことはなかったかもしれないと思うと、吉晴も後悔したでしょう。
まぁ、早逝したから、このエピソードがあるのかもしれませんが、それはさておき進めます。
その後、吉晴は忠氏の忘れ形見である忠晴を後見して、松江藩を治めます。
城は結局、忠氏が最初に選んだ亀田山に築かれました。これが現在の松江城で、山陰地方で唯一の現存天守でもあります。
残念なことに、吉晴は城が完成する直前に亡くなってしまっているのですけれども、この場所に決めたのは、息子への罪滅ぼしや鎮魂の意味もあったのでしょうね。
ちなみに吉晴は、秀吉時代に「アイツは仏様みたいに温厚だな」ということで、通称とあわせて「仏の茂助」といわれていたのですが……上記の諸々を見ると必ずしもそうではなさそうな……。
吉晴とは直接関係ないながら、松江城の工事に関しては人柱伝説がいくつかあるため、やっぱり物騒なイメージのほうが強い気がします。
時代的に、工事がうまくいかないから人柱を……というのはわからなくもありませんが、松江城の場合、経緯がヒドイ上に複数の伝説があるあたりがなんとも。
完全に余談ですが、もののついでに見ておきましょう。
地中から、槍の刺さったドクロが出てきた!?
まず一つ目がこちら。
「盆踊りの日、参加者の中で一番美人かつ踊るのが上手だった少女が、何も知らないうちにさらわれて埋められた」
しかも
「城は完成したが、城主親子が急死し、その後改易になった」
「天守からすすり泣きが聞こえるようになった」
「城下で盆踊りをすると城が揺れるようになった」
という本当に笑えない三重苦つきです。
もうひとつ。
「吉晴の旧友を名乗る虚無僧がやはり人柱になった」
工事がうまくいかない箇所の地面を掘ってみたところ、槍の刺さったどくろが出てきたので、虚無僧が祈祷を行って鎮めようとしました。
が、余程恨みが強かったのか、この僧の腕(口?)が悪かったのか、やはり工事はうまくいきません。
仕方がないのでやはり人柱を……ということになったわけですが、当然のことながら名乗り出る者はおらず、見かねた虚無僧が「私の息子を仕官させてくれるのなら」という条件で犠牲を引き受けました。
工事は再開できたものの、やはり堀尾家は断絶・改易になった……という話です。
そして、こんな話もあります。
「尺八を吹いていた虚無僧を捕まえて人柱にしたら、その後、尺八の音が聞こえてくるようになった」
世の中に人柱の伝説は多々あります。
が、ここの場合は話の共通点がなさすぎて事実だったのかどうかが全くわかりませんね。
中間を取ると「盆踊りの時期に尺八を吹いていた美人の尼さんが、何も知らされずに人柱になった」みたいな感じになっちゃいますし。
それはそれでありそうだから困る。
しかも松江城の向かいに、怪談話でお馴染み・小泉八雲の家があるというのがもう、箔がつきすぎてコメントしづらい(´・ω・`)
竹田城の赤松広秀といい、松江城といい、中国地方のお城は幽霊の絡む話が多いんですが……何それ怖い。
あわせて読みたい関連記事
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
山崎の戦いで明智軍vs羽柴軍が衝突!勝敗のポイントは本当に天王山だったのか
続きを見る
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
堀尾吉晴/Wikipedia
松江城/Wikipedia