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【加藤清正】
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領民に優しかった清正
加藤清正は【九州征伐】での手柄を買われ、肥後の統治を任されました。
清正はとうとう大名になったのです。
肥後の土地は、一揆が起こった直後で不安定な状態でしたが、清正は治水や農業政策にはじまり、商業政策などでも優れた手腕を発揮。
見事、この土地の統治に成功します。
清正は情け深い殿様として、領民からも慕われ、こんな話も残されています。
ある時、清正が道を通ると、目の不自由な女が道端に手をついていた。
女は自分一人でも大変な身でありながら、年取った母親を養うために物乞いをしていた。
気の毒に思った清正は、
「孝行な者に物乞いをさせるのは気の毒である」
として、幾分かの金をやることに。
それも盗まれる心配がないよう、名主に金を預け、少しずつ女にやらせるようにした。
朝鮮出兵と伏見の地震
天正18年(1590年)、小田原征伐を果たした豊臣秀吉は、その支配を朝鮮から明まで伸ばさんとして、出兵の準備に取り掛かりました。
清正はじめ九州の大名たちが命じられたのが、肥前(現在の佐賀・長崎)に前線基地を設置すること。
それが名護屋城の築城です。
名護屋城から豊臣軍15万が朝鮮出兵~秀吉が九州に築いた超巨大城郭とは
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朝鮮出兵の兵数は10万単位であり、それに見合った築城ともなれば、当然ながら重い負担が課せられることになります。
【文禄の役】では、先手の大将を務めることになった清正、この時31歳、25万石の大名でした。
二番隊を率いよと命ぜられた清正は、一番隊を率いた小西行長(こにしゆきなが)とは別の進路で軍勢を進めると、豊臣軍は目覚ましい快進撃を見せてゆきます。
連戦連勝を重ね、兀良哈(オランカイ)まで攻め入ったのです。
晋州(しんしゅう)での激戦では、清正は城壁を崩すために「亀甲(きっこう)車」という一種のタンクを考案したという話もあります。
車の上に牛の皮を、亀の甲の形に何層にも重ねて作ったもので、矢でも弾でも容易に破ることができない。
この中に家来を潜ませて城壁の下へ進ませ、石垣を崩すことに成功したのです。
しかし、この出兵中、思いもよらぬことが起きます。
あるとき清正公が突如日本へ呼ばれると、まったく見に覚えのない状況で理不尽にも謹慎の身となってしまったのです。
「武断派」の清正と、「文治派」の石田三成や小西行長の間で生じた溝が原因でした。
朝鮮・明との戦を終わらせたい小西行長と、それを支持する石田三成にとって、頑迷に秀吉の命に従おうとする清正は邪魔な存在でしかありません。
そこで「加藤清正が独断専行した」などと秀吉に訴え、清正を秀吉から遠ざけたのでした。
しかたなく屋敷に閉じこもっていた清正に、予期せぬ天変地異に見舞われます。
文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した【慶長伏見大地震】です。
推定マグニチュードは7.5。
伏見城天守や東寺、天龍寺なども倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる大災害となりました。
このとき清正は、すぐさま二百人の家来を連れて秀吉の伏見城へ駆けつけたという逸話があります。
秀吉は庭へ避難して無事でしたが、清正が一番に駆けつけ平伏する姿を見て、その忠義に感じ入り、謹慎を解いたという話ですね。
秀吉の死、関ケ原の戦い
無謀であるとして批判の噴出していた豊臣秀吉の朝鮮出兵。
一度に懲りず、慶長2年(1597年)になると秀吉は、再び派兵を決定し、またもや加藤清正と小西行長が先鋒を任されました。
この【慶長の役】で最も熾烈な激戦として知られるのが【蔚山城の戦い(うるさんじょう)】です。
浅野幸長が守っていた蔚山城に、突如、押し寄せた数万の敵軍。
「幸長の父から、くれぐれも息子を頼むと言われている」として清正は、反対を押し切り、わずか三百の手勢を率いて援軍に駆けつけました。囲みを破り、蔚山に籠城したのです。
朝鮮・明連合軍の兵は56,000。味方はわずかに13,000の兵でした。
しかも、食料も底を尽きていた。
それでも清正は
「食べるものがなければ雪を食べろ。氷を噛め。壁土を食べても戦え」
と檄を飛ばし、ついに城を防ぎきり、敵を撃退したのです。
しかし、その活躍が秀吉に認められることはありませんでした。なぜなら、この【蔚山城の戦い】の直後、秀吉が亡くなり、朝鮮出兵そのものが終わりとなったからです。
二度にわたる無謀な試みは、豊臣政権に深刻なダメージを与えました。
加藤清正はじめとする武断派と、石田三成や小西行長などの文治派の対立が決定的となったのです。
戦場の働きこそ武士の本分と考える武断派。
官僚的な仕事に重きを置く文治派。
もともと主義主張が食い違う両派でしたが、清正も、三成や行長の讒言により謹慎処分させられたり、戦場での働きを悪く報告したりされたりして、不満は爆発寸前でした。
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