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【前田玄以】
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前田玄以ならば朝廷工作も万全
低い出自のため信頼できる家臣が少なく、人材登用に注力したとされる豊臣秀吉。
いったい何を基準に人を求めたのか?
というと、武功以外の能力も重視して、家臣の登用を決めています。
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どこか影が薄いような前田玄以も同様。
玄以の知識と朝廷への伝手なしではできなかった動きを秀吉政権のもとで実現させてゆきます。
そもそも治安が悪化していた京都は、所司代なくして平和は成り立たず、朝廷には市街を取り締まる武力も金もない。
そこで秀吉が前田玄以を活用することで、朝廷に恩を売り込んだ――結果、秀吉に【内大臣】という大盤振る舞いが実現しました。
しかし秀吉は、その地位には甘んじません。
内大臣の次に【右大臣】が提示されると、今度は
「信長公は右大臣の時に討たれた、縁起が悪い」
と不満を示して、朝廷に揺さぶりをかけます。
迷信を本当に信じたのか。それとも迷信にかこつけて一足飛びに【左大臣】を狙ったのか。
いずれにせよ、この一件により、関白を歴任していた近衛家と二条家の間では争いが起き、事態を治めるために両者が「三問三答」という裁判で解決しようとするも、一向に埒が明かず……。
そこで秀吉が、菊亭晴季と前田玄以に解決を依頼して、返ってきた答えがこれでした。
「秀吉様が関白になればよい」
かくして秀吉はまんまと関白となるわけです。
一連の騒動は【関白相論】とも呼ばれますが、最終的に菊亭晴季と前田玄以が妙案を持ち込むというのはいかにも出来すぎた話。
要は、秀吉の天下のもと、法律も裁判もない、法治とは程遠い状態だったのでしょう。
こうした複雑怪奇な政治工作は、相当の知恵者がいなければ成立せず、玄以が暗躍していたことも浮かんできます。
暴走する秀吉を止められない
関白となるにあたり、秀吉は近衛前久の猶子となり、その過程を経て平氏から藤原氏となりました。
さらには源平藤橘に匹敵する功績があるとして、豊臣氏も作り上げる。
政庁として聚楽第を築く。
近衛前久の娘である前子(さきこ)を、後陽成帝に入内させる。
こうした朝廷の権威を背景とした政権樹立は、前田玄以のようなブレーンがいたからこそ成立が見込める。
京都にいた玄以は、フル回転で主君のために尽くしてきた形跡が見えます。
ただ、玄以の知恵は京都でこそ発揮されるためなのか、秀吉の本拠が京都から大坂へ移ると、その影は薄くなってゆきます。
文禄4年(1595年)、玄以は秀吉より5万石を与えられ、丹波亀山城主となりました。
一方で秀吉は止まりません。
天下を取り、全国の金山銀山を手にすると、その野望は海を越えて明にまで及び――ご存知【文禄・慶長の役】が勃発します。
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前代未聞の無謀な侵攻は、当初こそ快進撃に沸き立ちますが、程なくして守勢に回ると一気に勢いを失い、秀吉軍は窮地へ追いやられてゆきます。
結果、諸大名と諸将の間に軋轢が生じる。
秀吉の妻となった淀殿は待望の男児をもたらしましたが、この一件もかえって京都に不穏な空気をもたらしてしまいました。
明確な法体系がない京都では、秀吉の意思そのものが法律のように民衆を支配している。
秀吉と淀殿による第一子懐妊の際、口さがない京雀は「本当に秀吉が父親なのか?」と揶揄する落首を掲示しました。
それに激怒した秀吉が、大勢の関係者を処刑。
本当に事件に関係したのかどうか定かではない者まで、大量処分の対象とされてしまいました。
秀吉の凶行はこれに留まりません。
第二子の誕生後、甥である関白・豊臣秀次が自刃すると、またしても激怒し、秀次の妻子を見せしめのように大量処刑してしまいます(【秀次事件】)。
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こうした一連の残虐パフォーマンスは、京都での人気を失墜させます。
それがわからないはずのない秀吉が、自身のマグマを堰き止めることができない。自身の政権だというのに、不必要なダメージを与え続ける。
玄以は、さすがにその暴走を止められませんでした。
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