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【ねね・寧々・北政所・高台院】
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夫婦円満の秘訣は「妻をたてる」にあり!
結局、秀吉の女癖が治ることはありませんが、その後は「まず正式な妻を立てる」ようになっていきます。
例えば信長の死後、【小田原征伐】のときも「ホントはお前に来てほしいけど、危ないから代わりに淀(茶々)を来させてくれない?」なんて手紙を書いていました。
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どう考えても建前でしかないのですが、この建前があるのとないのとでは全然違いますからね。
当時淀殿は秀吉にとって唯一、初めての子供を産んでおり、アドバンテージがありました。
ここでヤキモチを焼いては、正室としてみっともないと考えたのでしょう。なにより信長が化けて出てくるかもしれません。
ねねは手紙の指示通り、淀殿に小田原へ行くよう伝えました。
そしていくら側室を増やしても、秀吉はねねを離縁したり冷遇することはありませんでした。
ねねが秀吉にとって妻以上に、側近のような役割もしていたからです。
ご存知の通り、秀吉は一代で天下人にまで上り詰めたため、家に代々仕えてきた家臣がいません。
その代わり、子供の頃から面倒を見てきた人はたくさんいました。
特に加藤清正や福島正則は小さい頃から住み込みで秀吉に仕えており、寝食の面倒を見ていたのはねね。
成長した後も、秀吉が死んだ後もこの二人は特にねねの味方をしてくれます。
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北政所は夫の死後に高台院へ
他にも、秀吉が関白になってからは朝廷との交渉を引き受けるなど、外交官のような役目もしていました。
その働きは、女性の最高位である「従一位」を与えられたことからもわかります。
秀吉にとっては妻としても側近としても欠かせない人だったのです。
それほどの人でありながら、ねねは「アタシが天下人の奥様よ!跪きなさい!!」なんて態度は全く取りませんでした。
逆に、どんどん天狗になっていく秀吉をたしなめ続けます。
「アンタ、小早川秀秋に冷たいんだって? 甥っ子なんだからもう少し優しくしてあげたら?」
などなど、秀吉が何かトラブルに見舞われるたびに仲介をしたりしています。
ホントできた奥さんです。
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ドラマではドロドロのバトルを繰り広げている淀殿相手でさえ、最近の研究では「実はうまくやってたんじゃない?」という説があります。
秀吉の死後、出家して大坂城を出て、京都・東山のお寺「高台院」にいたねねは、大坂の陣後も生き残りました。
家康からは1万6,000~7,000石の化粧料も与えられ、そして9年後の1624年、静かに天寿を全うするのです。
天下人の妻というよりも、夫の菩提を弔い続けた一人の妻としての最期でした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
高台院/wikipedia