こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【松下之綱(秀吉が最初に仕えた武将)】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
次男は加藤嘉明の娘を娶る
天正四年(1576年)というのは、秀吉の正室・ねねに対し、信長が励ましの手紙を送った年です。
之綱もこの手紙のことや、秀吉の家庭事情のことなどを耳にしたかもしれません。
では本人の結婚歴は?
というと、時期は不明ながら、松下氏の縁者から妻を迎えて多くの子宝に恵まれています。
長男は松下暁綱で生年は不明。
後に家を継いだ次男の松下重綱は天正七年(1579年)生まれです。
高天神城に籠城する前から秀吉を頼って長浜に落ち着いたあたりで、結婚したとみるのが妥当でしょうか。
後に重綱には、”賤ヶ岳七本槍”の一人である加藤嘉明の娘(星覚院)が嫁いできているので、豊臣家の中で松下之綱の立ち位置も良好だったのでしょう。

加藤嘉明/wikipediaより引用
重綱の次男・松下方綱は、山内康豊(山内一豊の弟)の養子になったこともあります。
康豊に実子が多く生まれたためか、後に離縁されているので、両家の関係はここで途切れてしまっているのですが、そもそも山内一豊と之綱はほぼ同時期に秀吉に仕え始めたので、親しき間柄だったのかもしれませんね。
となると気になるのは、松下之綱に対する秀吉の見方です。
いったいどう評価されていたのか?
秀吉からの評価は低からず高からず?
松下之綱の武勇や指揮能力等については記録が乏しく、この方面から人物像を描くのはなかなか厳しいところです。
しかし天正十年(1582年)の【本能寺の変】と【山崎の戦い】などを経て、秀吉は之綱に丹波2000石・伊勢1000石の領地を与えています。
大坂城普請の材木調達役も兼ねていたようで、この点からも松下氏は頭陀寺城時代から水運に慣れ親しんでいたのではないか?と推測されるところです。
天正十五年(1587年)には従五位下・石見守の官位と、さらに丹波3000石の加増がありました。
さらに天正十八年(1590年)、小田原征伐の後に遠江で久野(くの)城を与えられており、石高は1万6000石へ。
大身にあらずとも、立派な大名です。
徳川家康を関東へ移封した後、それを警戒するための人事の一環で配置されたものですが、秀吉としては少しでも故郷の近くに……という配慮はあったのかもしれません。
之綱が亡くなったのも久野城でした。
慶長三年(1598年)2月29日のことで、秀吉より半年ほど早く世を去っています。
ちなみに之綱が亡くなっておよそ半月後、秀吉は醍醐の花見を開催しました。

『醍醐花見図屏風』に描かれた豊臣秀吉と北政所/wikipediaより引用
久野城は高台に築かれていたと考えられるため、之綱も桜を見ながら永眠したのかもしれません。
之綱が亡くなった旧暦2月末は新暦の4月初旬ですし、久野で桜が咲いていたとしたら、死出の旅路が華やかな始まりになったことでしょう。
★
松下氏は之綱の孫・長綱の代に大名としては改易されてしまいましたが、旗本として家名は存続し、今も末裔の方々が存続しています。
派手な立ち位置ではないものの、戦国~江戸時代を生き抜いたのだから家としては万々歳でしょう。
あまり高い地位にならなかった故に、目立たない立場になった之綱。
「天下人と同じ年に生まれて死んだ、上司で部下だった男」と捉えれば、秀吉作品でもう少し目立っても良いような気がします。
みんなが読んでる関連記事
-
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
-
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
-
戦国大名・今川義元 “海道一の弓取り”と呼ばれる名門 武士の実力とは?
続きを見る
-
なぜ加藤嘉明は秀吉子飼いの有力武将なのに無名なのか~水軍にも長けた名将の生涯
続きを見る
-
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
冨永公文『松下加兵衛と豊臣秀吉 -戦国・松下氏の系譜』(→amazon)
日本人名大辞典