月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikipediaより引用

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墨俣一夜城の真実|秀吉を有名にした伝説 なぜこんな無茶な話が広まった?

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信長公記に答えあり

答えは意外にもアッサリ出てくる。

織田信長の足跡を細かく記した『信長公記』に「城がすでに存在していた」(洲俣御要害)ことが書かれているのだ。

一方で一夜城が作られたはずの永禄9年(1566年)には全く記されていない。

秀吉が作ったというのは完全なデタラメである。

ははーん、(改ざんを)やりおったな、猿め! と、疑いの目を向けたくなるが、今回ばかりは秀吉も悪くはない。

そもそもなぜ墨俣一夜城の話が広まったのか?

というと、明治時代の著名な歴史家が江戸時代に流れていた通説を信じてしまい、また、その歴史家が著名すぎたがゆえに誰も反論できず、そのまま放置されてきたのだった。

さらには戦後突如現れた信ぴょう性の怪しい『武功夜話』(前野家文書)でもドラマチックに描かれたことで一気に定着してしまった。

今となっては墨俣一夜城を信じる研究者はいない。

ところが、である……。

墨俣城跡に建つ大垣市墨俣歴史資料館

 


墨俣一夜城の戦いに似た戦いが

同じ年に墨俣一夜城の戦いに似た戦いが、織田vs斎藤の間で起きていたことも近年明らかになってきた。

『信長公記』には書かれておらず、斎藤方が武田信玄へ送ったと見られる文書から判明した。

そこにはこんなことが記されていた。

「信長が尾張・美濃国境に攻めてきて、川を渡り、陣を敷いた。

すぐに斎藤軍が迎撃にでると、信長軍はすぐに川を戻って対岸に陣を張った。

両軍は対岸に陣を敷き、戦いとなった。

信長軍が逃げたので追撃して、散々にやっつけました!」

あれ?信長敗北?

というより、実際は、両軍がお互いこのような戦勝報告をして、たまたま斎藤方の記録が現在にまで残ったのだろう。

結局、小競り合い程度があっただけの戦いだったのかもしれず、そうした古い記憶が雪だるまのように秀吉の偉業と結びついて……墨俣一夜城の伝説に結びついていった、と。

秀吉が派手好きということは間違いない。そのため、このような話も信じられてきたのであろう。

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文・川和二十六

【参考文献】
藤本正行『信長の戦国軍事学』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録』(→amazon

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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