豊臣秀吉

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る

こちらは4ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
豊臣秀吉
をクリックお願いします。

 


大事にしきれなかった血縁関係

秀吉には父の同じ姉が1人、父の違う弟1人と妹が1人いる。

父の同じ姉の智(日秀尼)は、農民であった弥彦(後に秀吉の家臣となり三好吉房と名乗る)に嫁ぎ、三男を産んだ。

それぞれ以下のような足跡を辿っている。

・長男の秀次は秀吉の養子となり関白の位を譲られるが粛正される(あるいは自らの自害説も)

・次男の秀勝も秀吉の養子となり、浅井長政の三女・江と結婚し、娘の完子を授かるが、文禄の役にて朝鮮に渡って病死する。

完子は江の再婚に際して、淀殿の養女となり九条家に嫁いだ。

秀吉の親類で現在まで血脈を残しているのは完子の子孫のみであり、実は今上天皇にも完子のDNAが受け継がれている。

・三男の秀保は叔父・秀長の娘と結婚し養子となるが、子を作る前に17歳で急死している。

異父弟にあたる秀長は温厚な人物で、内外の政務および軍事面で秀吉を支えた。

豊臣秀長/wikipediaより引用

諸大名の中にも秀長を信頼している者が多くあり、転職王と呼ばれた藤堂高虎も秀長が52歳で病死するまで配下にいた。

彼が長生きしていれば豊臣政権が存続した可能性があったかもしれない。

秀長の子女は、夭逝した男児の他は男子がおらず、長女は前述の秀保と結婚するも、子はいなかった模様。

次女の菊は毛利秀元に嫁ぐも妊娠中に死去。秀長の家系は子の代で断絶している。

妹の旭は、農民(秀吉の出世で武士となる佐治日向守)に嫁いでいたが、家康と和議を結ぶための政略結婚の道具として44歳で無理やり離婚させられ、徳川家へ正室(継室)として嫁いだ。

高齢であったため子は出来ず、47歳で病死している。

その他、秀吉の親類としては、母・なかの妹の息子(秀吉の従兄弟にあたる)福島正則や、母同士が従兄弟であり、秀吉とは又従兄弟にあたる加藤清正が知られる。

加藤清正(左)と福島正則/wikipediaより引用

福島正則、加藤清正は幼い頃からおねが可愛がって育てたため、おねを「おかか様」と慕ったとされる。

秀吉は、妻であるおねの親戚も家臣や養子として取り立てており、関ヶ原にて西軍を裏切った小早川秀秋はおねの兄・木下家定の息子であり、五奉行の1人・浅野長政はおねの養父・浅野長勝の甥にあたる。

 


身分低すぎるがゆえの「姓」の変遷

名字について、木下と羽柴については先に述べたが、身分の低かった秀吉に「本姓」はなかった。

秀吉は、天正11年(1583年)の従四位下参議から天正13年の内大臣まで「平秀吉」を名乗っている。

これは本姓がなかったため、主君であった織田信長の本姓(織田氏は桓武平氏の流れを汲むと言われる)を真似たと考えられる。

関白の就任にあたり、前関白・近衛前久の猶子となった秀吉は、姓を平から「藤原」に改めた。

そしてその後、正親町天皇から豊臣を本姓として賜り、使用するようになる。

秀吉はなぜ将軍ではなく関白になった?
なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか~エゲツない手法で公武政権を樹立した真意

続きを見る

 


中世から近世へのターニングポイント検地

本編で触れなかったが、試験には頻出する秀吉の政策を一つ補足しよう。

秀吉の検地(土地の再調査=増税)は、太閤検地と呼ばれる。

日本中が、石高を代表とする同じ基準で測量や土地の価値が統一され、日本経済史上、重要な出来事だ。

天正18年(1590年)の奥羽仕置までは、占領地に限定して行われたが、その後は、豊臣政権の重要な政策として全国で実施。

石高がわかると、その田畑で養える人口が計算できる。すなわち、動員可能な兵力がわかる。

特に文禄の役(朝鮮出兵)後に、広範囲に検地が行われていることから、朝鮮での兵糧を確保する目的があったとみられている。

 

豊臣秀吉・年表

1537年頃 尾張国中村に生まれる

1551年 頭蛇城城主・松下長則に仕える(15才)

1554年 清須城主であった織田信長に仕えはじめる(18才)

1561年 おねと結婚する(25才)

1566年9月 墨俣城を築く(30才)

1570年4月 金ヶ崎の戦いで殿を務める(34才)

1573年 羽柴秀吉と改名する

1573年8月 小谷城の戦い(37才)

1574年1月 長浜城を築城し居城とする(37才)

1577年10月 信長より中国攻めを命ぜられる(41才)

1578年3月 三木合戦(42才)

1581年10月 鳥取城の戦い(45才)

1582年6月 本能寺の変後、山崎の戦い明智光秀を討つ(46才)

1582年7月 太閤検地をはじめる

1583年4月 賤ヶ岳の戦い(47才)

1583年6月 北ノ庄城の戦い

1583年 大坂城築城開始

1584年 小牧・長久手の戦い徳川家康と戦う(48才)

1585年3月 紀州征伐(49才)

1585年7月 関白に任命される。四国平定

1585年9月「豊臣」姓を賜る

1586年12月 太政大臣に任命される(50才)

1587年5月 九州平定(51才)

1587年7月 バテレン追放令を出す

1587年9月 聚楽第を築く

1587年10月 北野大茶会

1588年1月 茶々を側室にする(52才)

1588年7月 刀狩令

1590年3月 小田原征伐(54才)

1590年6月 奥州を平定。秀吉の天下統一が完成する

1591年1月 弟・秀長が病没(55才)

1591年2月 千利休切腹

1591年12月 甥の秀次に関白を譲る

1592年4月 文禄の役(56才)

1593年8月 嫡男・秀頼の誕生(57才)

1595年7月 秀次切腹(59才)

1598年8月 伏見城にて病没(62才)

死後

1600年9月 関ヶ原の戦い

あわせて読みたい関連記事

織田信長と豊臣秀吉はどんな風に出会ったのか?太閤記や信長公記を確認してみよう

続きを見る

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?

続きを見る

大政所なか(秀吉の母)
大政所(なか)の生涯|秀吉と秀長の豊臣兄弟を産んだ母はどんな女性?

続きを見る

豊臣秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なんだ?粛清された陰陽師の中にいたのか

続きを見る

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

福島正則
福島正則の生涯|秀吉子飼いの戦国大名が徳川政権で喰らった改易の悲劇

続きを見る


参考文献

  • 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 第1巻 永禄八年〜天正十一年』(吉川弘文館, 2015年1月, ISBN-13: 978-4642014212)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉(歴史文化ライブラリー)』(山川出版社, 2012年5月, ISBN-13: 978-4634150218)
    出版社: 山川出版社
    Amazon: 商品ページ
  • 藤田達生『秀吉神話をくつがえす(講談社現代新書)』(講談社, 2007年9月, ISBN-13: 978-4062879071)
    出版社: 講談社
    Amazon: 商品ページ
  • 藤井譲治『天下人の時代(日本近世の歴史 1)』(吉川弘文館, 2011年11月, ISBN-13: 978-4642064293)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 戦国☆保健委員会 編著/酒井シヅ 監修『戦国武将の死亡診断書 ― 武将たちの死因を現代医学で解き明かす!』(エクスナレッジ, 2012年1月, ISBN-13: 978-4767812571)
    出版社: エクスナレッジ
    Amazon: 商品ページ
  • 小和田哲男 監修『戦国武将の履歴書 教科書には載っていない意外な素顔(宝島SUGOI文庫)』(宝島社, 2015年8月, ISBN-13: 978-4800244352)
    出版社: 宝島社
    Amazon: 商品ページ
  • 堀 新 編/井上泰至 ほか『秀吉の虚像と実像』(笠間書院, 2016年7月, ISBN-13: 978-4305708144)
    出版社: 笠間書院
    Amazon: 商品ページ
  • (参考)名古屋市 教育委員会『豊臣秀吉関係史料(名古屋市博物館/秀吉清正記念館)』
    公式: 名古屋市公式サイト

TOPページへ


 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

BUSHOO!JAPAN

編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

-豊臣家, 豊臣兄弟
-, ,