1600年と言えば関ヶ原の戦い。
あまり年号で注目されることはないが豊臣秀吉が死したのはその2年前、1598年のことである。
太閤の死から、日本の大名を東西真っ二つに分けた大戦までのドタバタがあまりにドラマであるため、戦国ファンにも置き忘れられがちだが、その間、非常に大きな戦いが異国で行われていた。
(文禄)慶長の役だ。
1597年から始まった第二次朝鮮出兵(文禄の役は1592-1593年)は依然として続いており、秀吉が息を引き取る間も彼の地では、豊臣政権配下の武将たちが血を流す日々を送っていた。そこへ突如と湧いた秀吉の死である。
戦争でいつも難しいのが引き際。いかなる流れをもって、豊臣軍は撤退したのであろうか。
目を見張る活躍したのは、九州一、いや日本一の骨太一家であった――。
発動、釣り野伏! 紅白狐に守られた島津義弘の神合戦とは
◆1598年10月、泗川新城に立てこもる島津軍が、これを包囲する明・朝鮮連合軍との間で激しい戦闘が行われました。
7,000という島津に対し、明・朝鮮連合軍は数万(10万とも20万とも言われますが、まぁ、10倍ぐらいでしょうか)。絶体絶命のときこそチカラを発揮するのが、後の関ヶ原でも「島津の退き口」で全国に名を轟かせる島津義弘さんです。
このときもお得意の釣り野伏(敵をおびき寄せて伏兵で一気に叩く、激しい戦闘術)でもって、敵に壊滅的な被害を与えました。明・朝鮮軍の被害者は4万とも11万とも言われております。どんだけ~!
露梁海戦
◆秀吉が亡くなり、もはや戦争を続けることができなくなっていた日本は、朝鮮からの撤退を決めました。
むろん、日本側はその死を秘匿し、小西行長は明・朝鮮軍との合意の上で撤退を進めようとしますが、まぁ、バレちゃうんすな。
にわかに敵の包囲で身動きのできなくなった小西行長。これを救ったのがまたもや島津義弘でした。海上で露梁海戦という激しい戦闘が行われ、一説に日本500隻(1万程度)と明・朝鮮連合軍500隻(多くて2万程度)がぶつかったと言われております。
勝敗は難しいところでありますが、小西行長は無事に逃れることができ、朝鮮側は、あの李舜臣が戦死していることから、撤退戦はまたもや島津義弘によって救われたという見方ができるかもしれません。ただし、立花宗茂なども活躍しており、九州大名の凄まじさがわかりますなぁ。
槍の又左が腕落つるとき、三河の狸が大きく化ける
◆秀吉亡き後、秀頼が成長するまで五大老・五奉行が豊臣政権を運営することになったのは戦国ファンにとってはお馴染みの展開ですね。
そして、その間に家康が決まりを破って、各地の有力大名と婚姻を進めたことも割と知られております。で、実際にどこと結んだのか?
「伊達家・福島家・蜂須賀家・加藤家・黒田家」とまぁ、名だたる家ばかりでして。五大老で、家康と肩を並べられる唯一の存在・前田利家が怒るのも無理はありませんね。
しかし、その利家にも老齢による衰えは隠すことができなくなっており……。
ワシは理由なき殺人などして……こ、こ、笄事件のことは><;
◆いつまでも古いことを覚えている女性の記憶力を恨むべきか。それとも自身の過去を悔いるべきなのか。
利家が危篤のときに、まつは「経帷子」を自ら縫ったといいます。死者の霊から守るために作ったんですね。なんと優しい女性なのか。
そして「笄事件」とは、利家が、織田信長さんお気に入りの茶坊主のことを叩き斬った事件でありまして、懐かしいというか、思い出すと泣けてくるというか。以下の回に詳細がございますので、よろしければご確認くだせーい。
まんが戦国ブギウギ5話「笄斬り」で若き利家、織田家から追放!
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漫画・アニィたかはし
【毎週・月曜日連載】
戦国ブギウギの書籍版です!