教科書では、長篠の戦いで織田・徳川連合軍にコテンパにされた不名誉なイメージもあるが、実際は「強兵」と恐れられた武田家の中枢を担っており、ゆえに同家の軍隊と言えば“騎馬”が真っ先に挙げられるだろう。
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そんな武田家にも“水軍”が存在したのはご存知だろうか?
むろん諏訪湖に浮かべる船ではなく、駿河湾を活躍の場としたれっきとした水軍。
実は武田家では、今川家衰退に乗じて侵攻した駿河で水軍を保持しており、同地方への侵攻によって関係が悪化した北条氏とドンパチを繰り返していたのだ。
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その中心を担っていたのが、伊勢から迎え入れた向井氏と小浜氏、さらには旧今川家の伊丹・岡部氏であった。
しかし、必死になって広げたその版図は、逆に防衛戦線の間延び・弱体化を生み出し、いよいよ武田家はピンチに陥っていく――。
伊豆の勝頼
◆静岡県内には当時、武田水軍の城として江尻城・袋城(静岡市清水区)や持舟城(静岡市駿河区)も存在していたそうです。
そんな水軍にうつつを抜かして現実を見てなかったのでしょうか。勝頼は致命的なミスをおかしてしまいます。それが高天神城の後詰放棄。徳川に攻められた同城の救援を見送ったのです。
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味方の城は後詰めをするのが当然です。そんな当たり前のルールを、勝頼はなぜ破ったのでしょうか……。
岡部元信
◆高天神城は、長篠の戦いに次ぐターニングポイントだと目されております。
このとき守っていたのは旧・今川家の岡部元信でしたが、そもそも高天神城は武田信玄が攻めても落とすことができず、勝頼が奮闘して奪ったのでした。
それを徳川家が攻めてきたのですから、絶対に死守せねばならない場所。しかし、あろうことか無視するように見殺しにしたのですから、武田家の権威が失墜するのは必至でした。
一説によると、織田信長はそれを見越して同城の降伏を許さなかったと言います。
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城兵は多くが餓死し、自暴自棄気味に討って出た軍勢もとことんクビを取られ――まさに信長の狙い通りの展開になったのでした。
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