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【不死川実弥】
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弱音を吐けない、男の苦しみ
そんな不死川実弥は、かつての男が持たねばならなかった悲哀が凝縮されています。
男性性の有害性が最も体現されているとも言える。
前述の産屋敷耀哉への態度にせよ、弟・玄弥の突き放し方にせよ、炭治郎と禰豆子への接し方にせよ。
もっと穏やかに話し合い、問題提起することはできなかったのか?
いちいち言動があまりに荒々しいのです。
不死川実弥が近くにいたら、どうです?
マンガを最後まで読んで、素晴らしい兄貴だとわかっていればよいですが、初対面だったら?
キレやすいだの、ヤンキー気質だの、現代ならばそうなりそうな彼の気質には、古典的な呼び名もあります。
鉄火肌。勇み肌。伝法肌。侠気あふれる。男伊達。親分肌。兄貴。生一本。一本気がある。
プラスイメージばかりのようで、強がりとは紙一重。
実弥は江戸っ子なのです。
江戸っ子は蕎麦にたっぷりとつゆをつけて食べられない、なんて小噺もあります。
なぜか?
無粋だから。
江戸っ子は強がり、見栄っ張り、向こうみずで無鉄砲、喧嘩っ早い。そういう特徴があるとされます。
落語等でよく見かけますが、実弥はまさしくそんな性格です。
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彼は自ら傷つけて、それを見せびらかすようなところもある。
一体なんなのか?
これも江戸っ子らしいといえばそうなのです。
あんなに傷をつけて、命が惜しくねえんだな、なんて奴だ! そういう無鉄砲さのアピールをしてこそ、江戸っ子だとされました。
伊予松山藩の足軽ながら江戸詰であった新選組の原田左之助は、切腹をした跡を自慢の種としていました。
こんなふうに腹を切っても死なない。俺ァ死に損ないだ! そう自慢していたのです。
現代人からすれば一体なんなのかわけがわからないかもしれませんが、それが江戸っ子です。
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ただ……そんな江戸っ子のような粋な振る舞いには、マイナス面もある。
そのことまで実弥は見せてきます。
毒となる男らしさ(マッチョイズム)
家族を突き放しておいて、本当は誰よりも愛している。守りたいと思っている。自分の粗悪さを悪いと思っていないわけじゃない。
ただ、それを見せられない!
男は無口で、背中で語るのがよい。ペラペラと理由なんざ説明せず、拳で語るくらいでいい。
そういう生き方が、日本男児、粋なものとしてかつてはありました。
それで当の本人だって、素直になれなくてとても苦しかった。
泣きたい時に泣けない。辛い時に辛いと言えない。愛している相手にそうも言えない。
むしろ正反対のことを言って、ケッと見下していかないと、見下されて弱い男になってしまうかもしれない。
そんなマッチョイズム、【毒となる男らしさ】を実弥は体現していませんか?
彼が素直になって、自分の感情を荒々しい言葉で吐き出す姿は、とても悲しいとは思えませんか?
男らしさの悲しさ。その弊害。それは、そのことをアピールする者が、苦しんでのたうち回ってこそわかるもの。
炭治郎が「長男だから」と発奮すること。錆兎の「男に生まれたなら進む以外の道などない!」という言葉。そして実弥の言動は、マッチョイズムに溢れていて、有害であるから変えるべきだという批判もあります。
けれども、実弥がこんなにも苦しく、悲しく、最後の最後で禰豆子に照れ臭そうに謝罪したことを思い出してください。
別にこの作品は、ワニ先生は、男らしさを無邪気に肯定しているわけではありません。
【マッチョイズム=毒となる男らしさ】にがんじがらめにされて、実弥は十分苦しかった。
それを見せています。
さらに大事なことは……そうした苦しさが彼一人のものではないことです。
実弥の父も、話し合うより喧嘩するような性質だからこそ、あっけない最期を迎えました。
彼らのような男性は、長いことこの日本にずっと存在してきました。
今でも彼らのような【マッチョイズム=毒となる男らしさ】に苦しみを感じている人はいます。
実弥はある意味、あなたや私の曽祖父、祖父、父であり、兄貴でもある。
そういう日本男児の悲哀と魅力を体現する人物です。
彼らを否定するだけではなく、理解し、どうすれば心の重荷を軽くできるか。
そこまで考えることは不利益ではないでしょう。
玄弥――弱き者が持つ強さ
実弥の弟である玄弥のことも考えてみましょう。
家庭環境が一致するため、兄と同じく粗暴さがあります。
外見もワイルド。そして初印象も悪い。最終選別の突破後には、案内役の子どもに乱暴を働き、炭治郎に止められていました。
まったくもって悪い印象しかありませんが、これも彼の若さや家庭環境を考えると理解はできます。
言葉よりも暴力が先に出ること。なんとしても実力を見せたいこと。そうしたことのせいで、粗暴な言動をしてしまっていると思われるのです。
父も母も死に、兄とは誤解が生じたまま突き放されてしまう。しかも、鬼殺の才能があるとも思えない。
そんな少年が、自分に目を向けさせる手段として、問題児めいた振る舞いをしてしまう。
玄弥にはそんな悲しさがあります。
共に生きていくことを通して、心を開いた玄弥からは、むしろ繊細すぎる性格が伝わってきます。
戦い抜いて、修行を積むうちに、師事した悲鳴嶼行冥や同期の炭治郎と交流し、やがて拒絶されていた兄・実弥とも心が通い合ってゆきます。
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はじめから素直なわけでも、才能があるわけでもない。
周囲との交流を通して成長し、本来の持つ優しさや長所を見出していく。
玄弥は、不器用だけれど親しくなればよいところがある、そんな人物像を見せています。
こうした最初からよい子ではない人物像を出していくことこそ、『鬼滅の刃』の特色なのでしょう。
誰も初めから完璧ではないのです。
日輪刀の色も変わらない。全集中の呼吸すら使えない。ゆえに大きな口径の南蛮銃を装備。鬼を喰らい、消化吸収する禁じ手を使うことしかない。
胡蝶しのぶは小柄で非力であることを、知能でカバーするタイプでした。
兄・実弥は度胸と勇気と、生まれ持った精神力、身体能力で闘う。
玄弥は、そのどちらでもありません。
繊細な感受性、工夫、負けない心で戦うのです。
弱い者でも強くなれる――そんな可能性を示す人物像でした。
★
本作の実弥と玄弥の兄弟は、男性性の持つマイナス面、本人も苦労するところを象徴するような人物です。
ワニ先生は、近現代の男が持たせられたそんな像をインプットし、それを生かしているのではないでしょうか。
確かに、彼はじめ本作の人物が語る一部の男性像は古臭く、平成令和では有害の思えます。
しかし、だからといって
「こんな古臭い男だからどうこうというセリフは、全面的に削るべきです!」
「男だから強くなくても良いと思います!」
という安易な意見には反対です。
そうすると、大正当時の男性が縛り付けられていた呪いが消えてしまい、かえってわかりにくくなります。
それは『忠臣蔵』に対して、
「別に主君が侮辱されたからって、討ち入りすることはないと思います!」
「赤穂浪士が切腹するエンディングはあまりに暗い! もっと明るくしましょう!」
そう要望するようなものではありませんか?
ハリウッドの『47 RONIN』だって、ゴーレムは出てきても、仇討ちと切腹は削除しません。
そういうその時代の精神性が宿る根幹は、決してはいけませんからね。
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念のため付け加えておきます。
冨岡義勇が無口で感情を出せないのは、大正時代だからでも、男だからでもありません。
どの時代にもごく少数いる、絶望的に空気が読めない性格の持ち主ということです。
義勇は令和にいようと、あの調子だと思われます。
男らしさのマイナス面、そのどうしようもなさは、鬼に集約されています。
柱よりも若い炭治郎たちは、むしろ伝統的な男らしさを抜け出しつつある像です。
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世界にはいろいろな人がいて、時代の制約があった。
そういう人々がいてこそ、幾星霜を煌めく命は受け継がれていました。
『鬼滅の刃』を楽しむついでに、過去にあった命、そして今を生きる命についても考えたいですね。
※【毒となる男らしさ】からの解放をテーマにしたジレットの広告ムービー
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
『鬼滅の刃』17巻(→amazon)
『鬼滅の刃』アニメ(→amazonプライム・ビデオ)