家康しかみ像

徳川家康のしかみ像/wikipediaより引用

本郷和人の歴史ニュース読み

家康のしかみ像は三方ヶ原と無関係?東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み

日本中世史の本郷和人・東大史料編纂所教授が歴史ニュースをぶった切る「歴史ニュースキュレーション」。

今日は徳川家康「しかみ像」についての新説に注目です。

浜松城に展示されている徳川家康の「しかみ像」photo by 戦国未来

 


家康の「しかみ像」は三方原と無関係?

◆家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>図解天下人の城:読売新聞(→link:現在はリンク切れ)

1572年に武田信玄三方原みかたがはらで大敗した家康は、絵師を呼び、あえて顔をしかめた姿を描かせて、自らへの戒めとして生涯座右にした、とされている。ところが、今年8月に同美術館で開かれた講演会で、学芸員の原史彦さんがこの常識を覆す新説を公表した。

それは、三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではない――という衝撃的な説である。

原さんが由緒を改めて確認したところ、この画像は、江戸時代中期の尾張徳川家9代の徳川宗睦むねちか(1733~99年)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめが1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したのだ。

本郷くん1

本郷「これは、ものすごくインパクトのある新説だなあ。長い間「しかみ像」として受け止めていて、疑ったことなんかなかったもの」

himesama姫さまくらたに

突っ込み姫「そうね。でも私はすごく納得できる気がする」

本郷「どういうこと?」

「だってあれ、三方ヶ原の戦いで、武田信玄にぼろ負けに負けたあと、描かせたものでしょう?」

本郷「うん。信玄が浜松城を素通りして西進したので、家康はおれのことをなめてるのか、って怒って家臣たちの制止を振り切って出撃した。信玄はそれを読んで待ち構えていて、さんざんに德川軍を打ち破った。家康は危うく討ち取られそうになりながら、恐怖でウンコを漏らしながら浜松城に逃げ帰った、というのがストーリーだよね」

「……わざわざ言う訳ね、それ。うん、まあ、そうね。それでいっときの激情に任せて行動してはならない、と自戒の念を込めて自分の姿を描かせたのよね。つまりは写実的な絵であるはずでしょう」

本郷「そうなるね」

「だけど、この絵の人物、どう見ても他の家康の画像に似ても似つかないじゃない。だから見るたびに、違和感があったんだ」

本郷「なるほどー。“しかみ像”の家康がトシを重ねて太っていったとしても、たしかに後の家康像には結びつかないねー」

「そうなのよ。なんかこう、人物の造形の基本が全く違うのよ。これって、画家のクセとか技法ではすまない気がするの。でも、早合点は禁物ね。論文の公開を待ちましょう」

 


天守高く徳川肥ゆる秋

◆江戸城天守 天高く 高さ58.63メートル、攻撃装置ない太平の象徴:東京新聞(→link:現在はリンク切れ)

江戸城の天守は、日本の城で最大級の規模だった-。

三浦正幸・広島大大学院教授(城郭史)は、1638(寛永15)年に徳川3代将軍家光が建てた天守の詳細な復元図を作成し、東京都千代田区で3日開かれたNPO法人の会合で公表した。

石垣の台座を含め屋根までの高さは58.63メートルで、資料が残っている城の中では最も高いという。

本郷「江戸城の天守閣って、明暦の大火で焼けちゃったんだよね」

「それでそのあと天守閣を再建しようという動きがあったのだけれど、保科正之(徳川秀忠の子・会津藩主)が「今は天守閣を建てるより、江戸の町を復旧することにお金を使うべきだ」と主張して沙汰止みになったのよね」

本郷「有名な話だよね。だけど、この時に焼けたのが三代目の天守閣だった、というのは知ってる?」

「え? そうなの?」

本郷「もちろん初代の天守は家康が作ったもの。ところがそれを壊して、秀忠が二代目の天守を作った。秀忠が没すると、家光は二代目天守を壊して、三代目天守を作った。そしてそれが明暦の大火で焼けた、という運びですな」

「德川家の将軍さま、それぞれに親子仲が悪かったのかしら」

本郷「なんだか、そんな感じだね。家光は秀忠を避けてたとしばしばいわれるけれど、家康と秀忠も怪しいね」

「でも、ものすごく大きな天守ね。江戸城は建物もお堀も石垣も,みんな大きさが桁外れね。幕府のご威光を遺憾なく示している、ということかしら」

 


再来年の女城主で脚光を浴びるか?静岡の無名の武士たち

◆戦国武将プロジェクト:始動 新野左馬助に脚光 御前崎の良さ全国へ /静岡:毎日新聞(→link:現在はリンク切れ)

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」(2017年放送予定)に合わせ、御前崎市新野地区で戦国時代に活躍した武将、新野左馬助(にいのさまのすけ)(生年不詳〜1564)に脚光を当てる官民共同のプロジェクトが始動した。

左馬助は主人公「直虎」の伯父(生母の兄)にあたる人物で、後の彦根藩祖・井伊直政の幼少期を助け「命の恩人」とされる。これまで地元の顕彰会が活動してきた。

本郷「新野左馬助なんて知らないなあ」

「遠江の武将で、名は親矩。今川家に仕えていたみたいね。井伊直親が謀反を疑われて今川氏真に殺されたとき、その子の虎松を守ったのがこの人らしいわ」

本郷「へー。その虎松が後の井伊直政になるわけだね」

「そうそう。再来年の大河ドラマの主人公、女城主の井伊直虎も、様々なかたちで助けられていたんだって」

本郷「ふうん。で、彼は結局どうなるの?」

「浜松城主の飯尾連龍が今川家に背いたので、これと戦って戦死したようね。それで、家はいったん、絶えるのかしら? 左馬助の娘の子、つまり外孫が井伊家筆頭家老の木俣守勝の養子になって木俣守安を名乗るのね。それで、幕末の井伊直弼の異母兄がはじめ木俣家の養子になり、ついで新野家を再興して新野親良になるの」

本郷「いろいろあるんだなあ」

「親良さんは明治維新後に彦根藩大参事(副知事)になり、天寿を全うしたみたい」

 

真田幸村の子孫が秘話を語りだした

◆仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」:週刊朝日(→link

大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村

来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。

幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。

本郷「伊達政宗と真田幸村(信繁)って、同い年なんだよね」

「ああ、それで。二人が親友だった、って設定の小説やコミックはわりとあるのよ」

本郷「それって、もしかしたら、女子が大好きなウス=異本の系統のお話ですか?」

「ううーん。ごにょごにょ」

本郷「それならね、燃料投下してあげる。政宗と片倉小十郎はラブラブだった、っていう話があるんだ」

「えー。そんなの当たり前じゃない。知らない人はいないわよ。高校の教科書にだって載っているわ(大ウソ)」

本郷「いやいや、ちがうちがう。小十郎といっても、景綱ではなくて、嫡男の重長の方ね。息子の重長も父に劣らぬ文武兼備の名将だったらしいけど、その上に美丈夫だったらしいよ」

「きゃー。それでその重長さまが、幸村の子どもたちを庇護されたのね」

本郷「でもさあ、幕府だってそう間抜けじゃないから、伊達家に幸村の子孫がいることを知っていたと思うよ」

「そうねえ。それは考えられるわねえ。石田三成の子が津軽藩に召し抱えられていたというのも有名だし。そんなに気にしていなかったのかしら」

本郷「だけど、たとえば明石掃部(あかしかもん)の子は切腹だったっけ。許してもらえなかったんだよね。そこらへんの基準が分からないんだよなあ」

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