日本中世史のトップランナーとして知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。
今週は、上杉景勝と景虎が越後国内を二分して争った【御館の乱】関連の新説ニュースに注目です。
景虎の子・道満丸が生存していた!?
◆「御館の乱」めぐり新説 南魚沼の郷土史家グループが研究 12月17日 新潟日報(→link)
南魚沼市の郷土史家グループ「上田史談会」は、上杉謙信の後継をめぐり養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、景勝側に殺されたとされる景虎の子・道満丸と元関東管領上杉憲政が生存していた可能性が高いとする研究をまとめた。
本郷「うーん、これはなあ、うーん」
姫「ずいぶん困ってるわね。言いたいことがあるなら、男らしくおっしゃいよ」
本郷「いやあ、ぼくは、こういうのはいかんと思うんだ」
姫「え? だって、どんな説を立てても、それは研究者の自由じゃない」
本郷「いや、基本そうだけどね。地元びいきというか、身贔屓が入ってくるのはまずいでしょ。それに、ぼくは火坂雅志さんって、何というか、苦手なんだよ」
姫「ああ。それは知っているけれど、亡くなられている方だから、その辺りはおさえてね」
本郷「はい。そうだよね。大人にならないと。じゃあ気を取り直して、道満丸って知ってる?」
姫「はいはい。御館の乱で上杉家の家督を争ったのが上杉謙信の養子の景勝に景虎よね。景勝の実父は長尾政景で母は謙信のお姉さん。だから景勝は謙信の血を分けた甥ね。一方の景虎は北条氏康の子。道満丸は景虎の嫡子になるのよね」
本郷「そうそう。そして道満丸の母は、景勝の同母の妹(姉とも)。つまり道満丸は景勝の実の甥に当たる。謙信と景勝の関係に等しい」
姫「天正6(1578)年3月13日に謙信が急死すると後継者争いが起きて、同月下旬には戦いの火ぶたが切られるのよね。ざっくりいうと謙信側近は景勝を、規模の大きな国人領主たちは景虎を支援したというけれど、ともかく越後が真っ二つに割れるほどの激しい争いになり、1年をかけて景勝側がかろうじて勝ったのよね」
本郷「そうだね。それでようやく勝敗がほぼ明らかになった天正7年3月17日、上杉憲政が道満丸を人質としての和議を申し込みに、景勝陣営に出向いた。憲政は知っていると思うけれど、謙信に上杉姓を与えた(長尾景虎が関東管領・上杉政虎になった)先の当主で、景虎陣営に属していた。ところが景勝派の武士たちは彼を包囲し、道満丸もろとも殺害した。道満丸は9才だった」
姫「そのあとすぐに景虎も討たれ、道満丸の母も自害するのよね」
本郷「そうなんだ。しかも景虎派の本庄秀綱(謙信第一の重臣、実乃の子)や神余親綱(かなまり・京都代官として活躍)らの勢力を平定できたのは、天正8年のこと。いかに御館の乱の対立が根深く、争いが激しかったかが分かる」
姫「戦国大名・上杉家の勢力がいっぺんに弱体化したと言われてるものね。ああ、そうか、それほどの争いがある中で、景虎の嫡子が助かるわけないじゃないか、とあなたは言いたいわけね」
本郷「その通りなんだよ。9才の子ども、しかも血を分けた甥を殺害するなんて、褒められた話では絶対にない。けれども、これは政治だし、戦争だし、時は戦国時代なんだ。ぼくらの価値観で考えるのはおかしい。景勝がどんなに優しい人であっても、道満丸は殺さざるを得ない。そうしなかったら、彼を担ぐ勢力がいつ再起するか分からないんだから」
姫「そうねえ。ちゃんと史料が残っているのなら別だけれど、私は道満丸の子孫です、と言っても証明のしようがないものね。上杉文書の読みがどうなのか、記事の分だけじゃとても納得できないし」
本郷「景勝が愛と義の人? それはまたどうせ、直江兼続の「愛の兜」に関連づけられるんでしょう? あれは何度も言うように、人を愛するの愛じゃないからね。愛宕権現、もしくは愛染明王の愛。上杉謙信は飯綱権現の姿を前立てにした兜をもっていたけれど、もしも兼続も同じく飯綱権現を一番に信仰していたら、「愛」じゃなくて、「飯」の兜ができあがっていたんだからね」
姫「はいはい、そんなに興奮しない」
本郷「いや、だって、火坂さんってさ、それに加えて何かと言えば軍師軍師って、軍師なんてシロモノは日本にはいませんよ。直江兼続も黒田官兵衛も軍師とかじゃありませんよって何度言えば……」
姫「こら。その辺にしなさい。小説家の想像力だし、お仕事でしょ」
本郷「いや、新潟出身の身贔屓や、大河ドラマ商売があんまり前に出るのはさ、」
姫「ピッピー! 一発レッド!! 退場です。この話はこれまで!」
ドイツ東部のケムニッツで「軍事史研究会」
◆研究者の目に歴史ゲームはどのように映っているのか。ドイツで行われた軍事史研究会をレポート 12月19日 4gamer(→link)
2015年11月26日から28日にかけて,ドイツ東部の都市ケムニッツで「軍事史研究会」の年次大会が開催された。この軍事史研究会は,軍事史と社会,文化との関わりについて毎年興味深い報告を行っていることで有名で,とくに今年のテーマは「コンピュータゲームにおける戦争と組織化された暴力」という,筆者を含めたストラテジーゲームファンにとっては興味深いものになっていた。これはぜひ行かねばなるまい,ということではるばるケムニッツまで取材に行ってきた。
本郷「これは面白い試みだなあ」
姫「あなた、シミュレーションゲーム大好きですものね」
本郷「なにおう。あなただって、イケメンが活躍するあのゲーム、大好きじゃないか。あ、ただのイケメンじゃないのか。この前、ものすごく前のめりになって島津義弘を操作していたの見たよ。よりによって、おじいちゃんかよ」
姫「うるさいわね。義弘様には人生のこくがあるのよ」
本郷「わかった、わかった。それについて語られると長そうだから、やめましょう。ともかく、日本でもまともな学者がこうしてゲームを研究してくれると良いね」
姫「あら?あなたの近くにゲームやアニメを研究している学者さん、いなかったっけ?」
本郷「いや、ここだけの話、あれは問題が多い、大杉なんだ。東映・ヤクルトの主砲で、月に向かって打て、の人ね。彼のは研究に見せてるだけで、実は……」
姫「ピッピッピー! レットです!! 一発退場。この話もこれまで!」
松江歴史館で天愚孔平の特別展
◆千社札の元祖たどる 松江歴史館で天愚孔平の特別展 12月19日 山陰中央新報(→link)
松江藩主の松平宗衍(むねのぶ)や治郷(はるさと)に仕え、神社仏閣に貼り付ける千社札(せんじゃふだ)の元祖とされる江戸詰の松江藩士、天愚孔平(てんぐこうへい)(1733~1817年)の足跡を振り返る特別展が18日、島根県松江市殿町の松江歴史館で始まった。力強い江戸文字で書かれた千社札の数々が、来場者の関心を集めている。
本郷「天愚さん? だれ、それ?」
姫「江戸時代の人だから、知らないか。本名は萩野鳩谷(はぎの-きゅうこく)というの。江戸時代中・後期の儒学者ね。出雲松江藩の江戸詰めの武士だったの」
本郷「というと、史上最強力士として名高い雷電為右衛門を抱えていた、松平治郷にも仕えていたのかな?」
姫「そうよ。江戸時代を代表する茶人の一人で、号の不昧(ふまい)が有名な方ね」
本郷「ぼくね、松江に出張に行ったとき、「不昧公ごのみ」の「若草」というお菓子を買って帰ったんだ。そしたら、今は上司になっているぼくの奥さんが「まずい公ってだれ?」だって。プププ」
姫「人には間違いがあるものよ。それでね、鳩谷さん。鳩谷は号なんだけれど、この人、奇行と高慢さから周囲から天狗と呼ばれたのね。それで自分で天愚を名乗ったわけ。それから孔子の子孫を自称して、名前を孔平にしたのよ。本当の名は信敏。通称は喜内」
本郷「えー、じゃあ、ものすごい中二なのかな? 千社札も、おれだおれだ。おれはここにいるぞーっ、て自意識まるだしの産物ってことでオッケー?」
姫「そんなに短絡的に考えないの! そこには美意識や江戸の技術があるんだから! せっかく力のこもった展示をして下さっているのだから、しっかり展示を見て、内容を吟味して、勉強しましょう!」