日本中世史のトップランナー(兼AKB48研究者?)として知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。
今週のテーマは「豊臣秀吉から脇坂安治への手紙に見える師弟愛、そして伊賀の杣人たち」です!
【登場人物】
本郷和人 歴史好きなAKB48評論家(らしい)
イラスト・富永商太
ツッコミ姫 大学教授なみの歴史知識を持つ歴女。中の人は中世史研究者との噂も
イラスト・くらたにゆきこ
◆秀吉子飼いの武将鍛えた材木調達 発見!脇坂文書(下) 読売新聞 2016年06月19日
姫「ねえ、秀吉の文書について、本当のところを教えてほしいのだけれど」
本郷「ん?本当のところというのは、どういうこと?」
姫「ええ。今回、秀吉の文書が新たに見つかったわけじゃない。その本当の価値よ」
本郷「なあるほど。わかってらっしゃる! 今回みたいに新資料が発見された!ってなると、マスコミがさかんに報道する。研究者の方も世知辛くなっていて、昔の先生方なら絶対にやらないと思うけれども、このたび私どもはこんな成果を挙げましたよ、とプレスリリースなんてものを手回しよく準備するわけだ。研究者とマスコミが持ちつ持たれつ、win-winであるわけだね。でも肝心の新資料の研究的な価値はどんなものか、と。張り子の虎ってことはないのか。そうおっしゃりたいわけですな」
姫「そうそう。本当に良いものは自然に人に知られていく、っていうのが日本の美徳じゃない。まあ、そんなことを言っていたら勝ち残れないんだろうけれど、そのへんに若干のうさんくささを感じるわけよね。研究者が時流に乗るのがいいのか悪いのかって、・・・あらあら、さんざんテレビに出ているあなたに聞いても仕方がないわね」
本郷「すいません。耳が痛いです。そうだね。昔からマスコミ教授っていうのは信用ないからなー。御用学者っていうのもいるしね。もう手遅れだけど、気をつけます。それで、ぼくが言うのもナンだけど、たとえば林修センセイの頭の良さは本物。あ、そういう話じゃないか、秀吉ね、秀吉。この秀吉文書の価値は間違いなく一級品。史料編纂所の同僚だからっていうのは抜きにして、この文書を復活させた村井祐樹くん(史料編纂所助教。大日本史料第11編担当)は実にすばらしい仕事をしたと評価されるべき」
姫「そうなのね。研究者が口裏を合わせて、すごいすごいって言ってるんじゃないのね」
本郷「うん。安心して。この記事もその価値について検討しているわけだけれど、ここには少なくとも、①当時の材木調達のありよう、②秀吉の部下の育成方法が如実に記されていてたいへんに興味深い」
姫「まず①は、大きな建物を建てるためには、大きくて質の良い木が必要になる。今も昔も木を調達するのはとても難しい、ということね」
本郷「そうなんだ。ぼくがびっくりしたのは、伊賀の材木が京都に運ばれていること」
姫「その史実が、なんで、びっくりなの?」
本郷「いや、伊賀は古代の昔から、良質な材木を産出する場所として有名なんだ。たとえば東大寺の領地である玉滝の杣という名前は、ちゃんと研究に従事している人なら誰でも知っているはず。伊賀にはこういう『杣』というのがあって、米や麦や野菜なんかの代わりに、木材を税として進上したんだね」
姫「ふーん。でも、山の中であれば、そういう場所は普通にあるんじゃない?」
本郷「いや、木を切り出すだけじゃダメでしょ。現代の科学力ならいろいろな手段でそれを運搬できるけれど、当時はないわけだから」
姫「そうか。クレーンもトラックもないものね。木を奈良や京都などの都市に持ってくるのはたいへんな作業なんだ。それで、どうやったの?全部を人力で、なんて無理でしょ?」
本郷「そうだね。無理だね。だから水運を使ったんだ。切り出した木は筏に組んで、川に流す。伊賀上野地域は木津川上流域だったから、これを利用して奈良、京都、さらに時代が下ると大阪に運んだんだ」
姫「なるほどー。つまり、伊賀という国には、材木を切り出すノウハウ、運搬するノウハウがすでに確立していたんだ。その知の集積が秀吉の時代にも活用されたことが、この文書から推測できる。それであなたがびっくりしたわけなのね」
本郷「そうなんだねー。木ってさあ、1度切ってしまったら、苗木を植えて、使えるようになるまで何十年とかかるわけじゃない。それを伊賀の杣人たちはちゃんと続けていたんだね。当たり前と言えば当たり前なんだろうけれど、それを確認できたこともうれしいな」
姫「じゃあ、②にいくわよ。この文書の受け取り主は脇坂安治だったわけだけれど、秀吉が安治をどういう風に教育したかっていう話なのね」
本郷「そうだね。文書を読んでいると、安治は北陸地方の戦いに参加したいのだけれど、秀吉に伊賀の統治をきちんとやれ、木をきっちり送ってこい、と説教されているさまがうかがえるよね。槍働きはもちろん大事なんだけれども、領国を統治するすべを習得しなさい、という秀吉の配慮がうかがわれる」
姫「安治といえば、『賤ヶ岳の七本槍』の一人でしょう。秀吉に取ってみれば子飼いの家臣よね。彼は伊賀を与えられて、大名になったの?」
本郷「いやいや、そうじゃなくて、伊賀地方を治める代官なんだ。伊賀からの税収は秀吉に納めなくてはならない。自分のものじゃあないんだね。そこをきちんと区別しなくてはならない。彼のような役割を果たしたのが、江戸時代の『お代官さま』だね」
姫「じゃあ、彼自身の俸禄は、『賤ヶ岳の戦い』によって得た3000石のままなの?」
本郷「そういうこと。それで、伊賀国の統治をやり遂げた功績によって、天正13年(1585年)5月、摂津国能勢郡に1万石を与えられたんだ。それから同年の8月に大和国高取で2万石、10月には淡路国洲本で3万石を与えられた」
姫「とんとん拍子の出世のようにも見えるけれど、加増されているのは1万石ずつなのね。その意味では、ずいぶんと地道というか、花がないというか」
本郷「そこだ。ぼくたちは加藤清正と小西行長が小身からポンと肥後国の半分ずつ、20万石あまりの大名に抜擢されたのを知っている。もともとの家臣団をもっていない秀吉は、そんな風にして大盤振る舞いをしながら豊臣恩顧の大名たちを作っていったと勘違いしている」
姫「なるほど。それはあくまでも例外、ってことね」
本郷「そう考えた方が良さそうだね。大名になるっていうことはすごいこと、たいへんなことなんだよ。それと武断派の代表と目される清正もね、肥後の大名に抜擢される前は戦場での働きではなく、文官的な、あるいは『文』とまでは言わなくても軍政官的な役割を果たして秀吉に評価されていた、という指摘もある。槍ふりまわして一国一城の主、というのは幻想なのかもしれない」
姫「うんうん。だいたい、三国時代の豪傑じゃないんだから、一人で無双できるはずもないのよね。戦争が政治の延長であったり、経済活動である側面を重視しなくてはね」
本郷「そうだね。ちなみにこの後の安治は水軍の将として活躍した。島津攻め、北条攻めなどではがんばって功績を挙げている。でも朝鮮出兵の文禄の役の際に、抜け駆けして李舜臣率いる朝鮮水軍に手痛い敗北を喫してしまった(閑山島海戦)。それで、豊臣政権下では目立った加増はなかったんだ。加藤清正や福島正則は『賤ヶ岳の七本槍』の話が出ると、『おれを脇坂などと一緒にするな』と不機嫌になったというエピソードがある。これはさすがにひどいウソだろうと思うけれど、結局、規模の小さなな大名で終始したわけだ」
姫「調べてみたら安治は伊予の大洲城主、5万3000石を領したとなっているけれど、それは徳川政権下でのことなのね。関ヶ原などでの彼の動向については、また別の機会に話してね」
本郷「はい。了解しました」