伝・堀川城跡(浜松市北区細江町気賀)

おんな城主直虎特集

虐殺、堀川城の戦い 家康が気賀を攻めたのは臨済宗の一揆を恐れたから?

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気賀を舞台に、守る今川、攻め込む徳川――。

8月27日に放送された大河ドラマ『おんな城主直虎』は、気賀の城=堀川城を舞台にした「堀川城の戦い」がテーマでした。

この合戦では柳楽優弥さん演じる龍雲丸が刺され、その仲間たちもほぼ全滅という非常にハードな内容でしたが、皆さんのアタマにこんな考えはよぎりませんでした?

『堀川城の戦いって……史実にあったの? それとも創作?』

結論を先に申しますと、同合戦は史実ベースのお話です。

では、史実における堀川城の戦いとは、どのような合戦だったのか?

本サイトで井伊直虎特集を手がける戦国未来氏に、通説と合わせて同氏の解釈も記して貰いました(なお、龍雲丸のモデルについては、同じく戦国未来氏の以下の記事をご参照ください)。

【戦国治水譚】水馬鹿と呼ばれた北楯利長 最上家臣が庄内平野を変貌させる

山 ...

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細江湖の北岸に位置する交通の要衝・堀川城

史実における堀川城の戦いとはいかなるものか。

まずは、理解度を深めるため「気賀と井伊谷の位置関係」を確認させていただきます。
以下の地図をご覧ください。

井伊谷の南西にあるのが気賀の街/作・戦国未来

大きめの赤枠で囲まれた「井伊谷」が井伊直虎の本拠地で(死ぬ直前の小野政次が立て籠もっていたのが井伊谷城)、その南西にあるのが気賀です。
気賀は細江湖(浜名湖北部の水域)の北岸に位置しており、同湖における交通の要衝でした。

ここで1569年に起きた德川軍と籠城軍の戦闘が「堀川城の戦い」となります。

堀川城そのものに関する伝承と通説(学説)については、以下の記事「徳川家康の遠江侵攻」をご参照いただくとして、

『徳川の遠江侵攻』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 捌の巻

& ...

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今回の原稿では「堀川城の戦い」、余談として「三河一向一揆」や「気賀の戦後(現状)」について触れてみます。

まずは「堀川城の戦い」の基本事項(5W1H)を確認しておきましょう。

①いつ?:永禄12年(1569年)3月27日
②どこで?:堀川城(静岡県浜松市北区細江町気賀)
③誰が?:堀川城の籠城軍と徳川軍
④何を?:德川軍が堀川城を攻めた
⑤なぜ?:気賀の人々が徳川家康に反抗して堀川城に立て籠もったから
⑥どのように?:松崎に本陣を置いた徳川軍が、干潮時に攻撃

では、一つずつ詳しく見て参ります。

まず①、合戦の行われたタイミングについて。
徳川家康は、前年・永禄11年(1568年)の12月中旬、堀川城のあった気賀を避けるルートで、遠江国へ侵攻しました。

堀川城の戦いが起きたのは、遠江入りしてから3ヶ月後。
その位置は、前述の通り、静岡県浜松市北区の細江町気賀となります。

しかし、ここで一つポイントが。
このときの戦いの「堀川城」は、「堀川」に築かれた「堀川城」(「気賀砦」とも)ではなく、「大鳥居」北端の高台にある屯倉神社跡地に築かれた「堀川城」(「新城」「鵜ノ毛城」とも)になります。

堀川城は、気賀の中に新旧2つあったのですね。
戦いの舞台となった新しいほうの堀川城(大鳥居)は高台の上に築かれ、たとえ満潮時でも大河ドラマのように「水上の城」になることはありませんでした。

ただし、城の周囲は都田川の支流(人工運河?)に囲まれておりましたので、干潮時に徒歩で渡れても、満潮時に堀川城へ行くには舟が必要だったようです。

以下の地籍図をご確認ください。

堀川付近の地籍図

地図上部で、鉄道の路線が東西に敷かれており、気賀駅があります。
駅の南西に大河ドラマ館があり、さらに南西が堀川、そこから更に南へ進むと大鳥居という位置づけです。

では、その堀川城に立て籠もったのは誰だったのか?

答えは今川軍……というより気賀と周辺の民衆が中心でした。

 

干満差の大きい大潮を狙い3,000の兵を用意

攻める徳川軍3,000人に対し、堀川城に立て籠もったのは2,000人。
当時の気賀は人口2,000人ですから、全人口となります(伝承では、気賀2,000人と刑部1,000人、計3,000人のうちの2,000人とも)。

男だけではなく、女も参戦しました。
それも何も持たずに避難したのではなく、彼らは竹槍や猟銃を持っており、戦う意志を携えながら自主的に集まったのです。

ドラマでは、堀川城は強制収容所となっており、城代・尾藤主膳らが声を張り上げ扇動しておりました。
「徳川というのは、今川様のように寛大ではない。戦、戦で成り上がってきた鬼のようなやつらじゃ。勝てば略奪の限りを尽くそうとし、下ったとても、人買いに売られるだけじゃ」
「腹をくくれ~。うぬらにはもう後が無いのじゃ~」

ここで、史実の德川軍はどう動いたか?
まず家康が見極めたのは“潮”でした。

潮の干満差が大きい大潮は、月初1日の前後三日間となります。
そこで都田川(落合川)の対岸・松崎に本陣を置き、大潮を迎える3月27日の干潮時に徳川軍3,000人で攻め込んだのです。

この日を選んだのは、船ではなく徒歩で攻めかかるためです。

なお、ドラマでは、本陣に徳川家康がおらず、酒井忠次が独断で攻めたことにしておりました。
が、史実では家康が指揮を執っておりまして。どうもこのドラマでは、徳川家康を悪者にしたくない様子も窺えます。

上の地籍図や現在の地図を見ると、大鳥居と松崎の間に「都田川」(「新川」「落合川」とも)がありますが、当時の都田川(「大川」とも)は現在の葭本川と要害堀であって、大鳥居と松崎の間は大河ではありませんでした。

この「新川」(「新しい都田川」の意)はどんどん川幅を広げて、現在のような大河(都田川)となりました。

地籍図の東側・油田という地に大円寺があります。臨済宗方広寺派であって妙心寺派ではないので、戦いには参加しませんでしたが、応援のため住職・春浦和尚が「徳川家康が今すぐ死にますように!」とご祈祷を行いました。しかし、家康が勝ったので「自分の法力不足」と恥じ、鐘をかぶって寺の「大日池」に飛び込んで、入水自殺しました。この池は今はありません。どこへ行ったか? 埋められた? 勘の鋭い読者様はお気づきでしょうが、新川の川幅が広まって、この池は、現在は川底となっているのです。

 

1,000人を撫で斬りに! 捜索隊も駆使して700人を更に……

かくして3月27日、松崎に本陣を置いた徳川家康は、干潮時に攻撃を開始しました。
地面はぬかるんでいたので、三方ヶ原で刈り取った柴を撒きながら進軍したそうです。

3,000人の武士が、1人で3人の農民を「撫で斬り」(たくさんの人を次々に切り捨てること)すれば9,000人殺せますが、実際に殺したのは2,000人中の1,000人。1,000人には逃げられています。

いくら戦闘意欲マンマンで城を守ろうとしても、農民は農民、いざとなれば怖くて逃げてしまうのですね。
この逃げた1,000人を德川家康は半年間捜索し、見つけた700人を処刑して、首を畷(なわて・田んぼの畦道)に並べました。

この畷を「獄門畷」と呼んでおり、今も石碑が残っております。

獄門畷

「獄門畷」現地案内

上記の看板は、「獄門畷」に設置されている現地案内版です。

文字に起こしてみましょう。

「獄門畷(ごくもんなわて)
永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。
堀川城址は、ここから南へ六百メートル程にある。
永禄十二年(一五六九)三月二十七日、堀川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。
大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした」とある。そしてその後に捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。」(現地案内板)

 

なぜ2,000人もの民衆が城に集い、家康に対抗したのか

「堀川城の戦い」で最大の疑問。
それは「なぜ、人口3000人の地域で2000人もの人々が武器を持って城に集まったか?」ということです。

これには、今川氏真が「徳政令」を出してくれた名君であり、それゆえに味方したという見方がある一方、江戸時代の古文書には「武田信玄が調略して、徳川家康を討たせよう(少なくともダメージを与えよう)とした」と書いてあることも多いです。

要は「堀川も(付近の)堀江も、今川方ではなく武田方だった」としたいようですが、当時の手紙を読むと、堀川も堀江も間違いなく今川方です。
ゆえに德川に攻め込まれ、それに対抗したと上記・獄門畷の現地案内板でも説明されているワケですね。

こうした通説とは異なり、私は以前、以下のように考えておりました。

「堀川城は、地域住民にとっては避難所であったが、付近にある松崎城(本城)の城兵にとっては詰の城であった。徳川軍が襲ってくると連絡を受けた地域住民が、武器を持って堀川城へ避難すると、松崎城の城兵が逃げ込んできたので、住民も徳川軍と戦うことになった」

自分で言うのも何ですが、この考え方は少し変でした……。
本来、地域住民の避難所(アジール・聖域)は城ではなく“寺”のはずです。

ドラマでは「堀川城の城兵が、地域住民を強制的に連行し、今川氏真のために徳川家康と戦え」と扇動したという設定になっておりました。
これは「2000人が集められた」理由の解説にはなりますが、「2000人が武器を持って自主的に集まった」理由にはなりません。
あくまで“自主的”というところがポイントなのです。

ヒントは『武徳編年集成』に隠されておりました。

「去年引佐峠ニテ蜂起シケル気賀ノ賊徒等ガ残党、西光院・宝渚寺・桂昌院、併ニ郷士ノ尾藤主膳、山村修理、斎藤、竹田、瀬戸、余古、加茂、又、刑部ニテハ給人百姓ト称する内山党、其外、寺社人、地下人、又、蜂起シ」(「瀬戸」は瀬戸方久?)

こちらの史料から察するに、「堀川城の戦い」は、
「武士(徳川軍) vs 武士(今川軍)」
ではなく、
「武士(徳川軍) vs 武士(今川軍)&寺侍(臨済宗妙心寺派)&信者」
であったようなのです。

つまり、中心的な役割を果たしたのは西光寺(西光院)と宝渚寺のようで、これを彷彿とさせるのが「三河一向一揆」です。

そうです、この戦いは、家康に対する「気賀臨済一揆」だったのではないでしょうか。

 

今川家に保護されていた臨済宗妙心寺派が民衆を扇動した!?

堀川城の首塚供養は、合戦のあった3月27日に近い日曜日、気賀の臨済宗妙心寺派4ヶ寺が持ち回りで行われます。

そしてそのうちの3ヶ寺は稲荷山にあります。

稲荷山山麓の案内板

上記の看板をご覧ください。

旧字で少し読みづらいですが、一番左の(西)龍遊山寳渚寺がポイントとなる「宝渚寺」。

以下の写真です。

宝渚寺

そして以下の看板に宝渚寺現地案内板が記されております。

宝渚寺現地案内板

少し長いですが、こちらも文字に起こしてみたいと思います。

「宝渚寺(ほうしょうじ)

山号は龍遊山。宗派は臨済宗妙心寺派。
往古、湖岸に満願寺と称する地蔵の霊場があったが、応安二年(一三六九)、開山の東漸健易和尚が現在地に移し寺名を改め、禅宗になったと伝える。本尊は由来により地蔵菩薩。
天文九年(一五四〇)の今川義元の判物と永禄九年(一五六六)の今川氏真の判物が伝わり、末寺の智海庵、祇園寺、受楽寺の名が記されているが、どこに所在したか明らかではない。
永禄十二年(一五六九)堀川城の戦いで、殿堂傾敗し、寺領が没収されたが、慶長六年(一六〇一)に再興された。江戸時代の朱印高は二石。
明治十九年(一八八六)火災により諸堂宇を焼失したが、同二十三年、二十三世法仙和尚が住職となり、本堂、庫裡、観音堂を再建。
昭和四十三年、鐘楼を整備し、梵鐘を再鋳。以後、庫裡、客殿を新築、境内の西から北の庭は巨大な自然石からなり、雄勁である。
平成二年三月二十日 細江町教育委員会」(宝渚寺現地案内板)

上記のように、宝渚寺は、もともと今川氏が保護していた臨済宗妙心寺派の巨大寺院でした。今川氏真の時代には、末寺の智海庵、祇園寺、受楽寺を含めて安堵されています。

そもそも今川領の遠江・駿河両国では、駿河今川4代範政が善得寺(臨済宗)を氏寺とした時から、京都五山の文化を奨励して文化水準の向上に務め、さらに駿河今川11代義元が家督を継いでから、臨済宗妙心寺派の寺院が急速に増えていたのです。

しかし、ここで浄土宗の徳川家康が侵攻してくれば、どうなるか?
「三河の一向宗弾圧と同じようなことが、今川氏真の信仰する臨済宗妙心寺派寺院に対しても行われるのでは?」
と不安を抱いても不思議はないでしょう。

かくして臨済宗妙心寺派の寺が気賀の檀家(信者や地域住民)を扇動し、家康に対抗して戦いに発展したのが「堀川城の戦い」の真相、つまり気賀臨済一揆だったのではなかろうか――。
そんな風に私は考えております。

「堀川城の戦い」の後、気賀の臨済宗妙心寺派寺院は悉く焼かれました。
一向一揆に苦しみ嫌な記憶を持つ家康が、災いを根絶やしにしてこうと考えても不思議ではありません。

同合戦の後、井伊直虎の師であり、同じく臨済宗妙心寺派でもあった、龍潭寺・南渓和尚が現地にやってきて、堀川城・守将たちの葬儀を行っています。
いずれにせよ古文書の焼失も手伝って、私の仮説「堀川城の戦いは気賀臨済一揆だった!」という検証・調査は進んでおりません。残念……。

最後に、家康(というか支配者層)がアレルギー反応を示す一揆に関して、補足説明をしておきたいと思います。

 

三河一向一揆はど如何に家康に影響したのであろうか

若き日の徳川家康を散々に苦しめた「三河一向一揆」とは一体なんだったのか?

コトの発端は「寺内不入権」を徳川家臣が侵害したことにあり、これには清洲同盟が遠因となっているようです。
一向宗(浄土真宗)を弾圧している織田信長と同盟を結んだことから、「德川の三河でも一向宗の弾圧が行われるのではないか?」とする不安感が生まれたのです。

それが徳川家臣による寺内不入権の侵害をキッカケとして、一揆に発展――というもの。家康は、多くの家臣も巻き込まれてこの鎮圧に相当手こずりました。

残念ながら「堀川城の戦い」の真相はまだ判明していません。
しかし、徳川家康が半年間もしつこく参戦者を捜索し、9月9日に捕らえた700人を処刑したというのが本当であれば、家康が「三河一向一揆」を思い出し、「他の臨済宗妙心寺派の寺院に広まる前に絶やさねば」と考えても不思議ではないでしょう。

それは堀川城の陥落後、城代として遣わした武将の姓からも見てとれます。

本来、堀川城は、三遠(三河&遠江)境目の城ですので、それなりの人物を城代にしなければなりませんでした。
そこで家康は「懐刀」と呼ばれた石川数正の三男・康次※1を入れたのです。

「石川」といえば、石川政康※2の子孫で「三河一向一揆」の負け組です。

徳川家康にしてみれば、石川康次を堀川城代に抜擢することで、
「徳川家康はいい人で、負けても父は懐刀とし、その息子を城代に取り上げてくれる。臨済宗の弾圧はしないと言っているから、他の臨済宗寺院に一揆の呼びかけをしないように」
とアピールしたのではないでしょうか。
※ただし、康次は若造ですし、石川数正は浄土宗に帰依させられたので、臨済宗を保護するという意味での説得力には少し欠けますが……

ちなみに石川一族では、他に石川家成(数正の叔父)が実力者だったと思われ、彼はさらに重要な城(朝比奈泰朝が今川義元と共に出た直後の掛川城)の城主に抜擢されました。

 

気賀の古老たちは今なお、家康を呼び捨てにし、信玄様と敬う

気賀で最も楽しい年中行事は、牛頭天王社(現・細江神社)の祇園祭でしょう。

このお祭りには、屋台は登場しません。
「出引」(でびき)と呼ばれる太鼓台だけが登場します。

細江神社・祇園祭の出引(太鼓台)

祭りなのに、なぜ出引だけなのか? それは
──家康に屋台を禁止されたから
であり、気賀の住民は、このルールを頑なに守り続け、祇園祭と重陽の日に、徳川家康に対する恨みを新たにするのです。

※9月9日は「堀川城の戦い」の残党700人が徳川家康の命で斬首になった日であり、気賀では9月9日の「重陽」(九月節句・菊の節句)の祝いをしない。

今でも気賀の古老は、徳川家康を「家康」と呼び捨て、武田信玄を「信玄様」と呼びます。
德川家康は侵略者であり、武田信玄はその侵略者を三方ヶ原で破ったヒーローだからです。

武田信玄は、「三方ヶ原の戦い」後、刑部砦に滞在しますが、住民たちはきっと大歓迎したことでしょう。
そして、武田信玄も、その大歓迎に応えたのか、気賀では焼き討ちを行わず、徳川軍に寝返って堀川城を襲った井伊衆の本拠地である井伊谷を蹂躙し、龍潭寺を焼き、野田城へと向かったのでした。

三方ヶ原の戦いについては、後日あらためて記事にさせていただく予定です(了)。

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 

※1 石川康次の生年は不明。井伊直虎とほぼ同じ天文2年(1533)生まれの石川数正の20歳のときに生まれたとすると、1569-(1533+20)で16歳と若い! ただし、気賀では、石川数正の子ではなく弟だと伝わっております

※2 石川政康については『寛政重修諸家譜』に以下のような記述があります。

「政康 下野権守 文安年中、本願寺蓮譽、法を弘めむがため下野国に来るのとき、政康にかたりていはく、三河国は我郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべきものなし。ねがはくは、三河国に来りて、わが門徒を進退すべしとなり。これにより蓮譽とゝもにかの国におもくき、小川城に住す。このとき石川に復す。」(『寛政重修諸家譜』)

【大意】政康は、関東に下って布教活動を行っていた本願寺蓮如に下野国で会い、「三河は我が郷党なり。武士の大将として、一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし」との蓮如の誘いに応じ、蓮如と共に三河国へ行き、文安3年(1446)、三河国碧海郡志貴荘村(現在の愛知県安城市小川町志茂)に小川城を築いて住んだ。曾祖父・朝成は妻の姓である「小山」を名乗ったが、政康は、三河移住を機に「石川」に戻した。

三河国に一向宗が根付いたのは、俗説では「親鸞の柳堂の説法」からとするが、史実は「顕智の薬師寺での説法」からです。民衆には広まったのですが、武士にも広めようと、蓮如は、石川政康に目をつけました。

石川政康は、三河国内の本願寺門徒の武における実権の掌握者に蓮如に指名されると、まずは、額田郡土呂(岡崎市福岡町)に「石川一族の寺」として本宗寺を建てました。

そして本宗寺を蓮如に寄進すると、本願寺第9世法主・実如(蓮如の子)の四男・実円が住職となり、同寺は「一家衆寺院」(一向宗法主の血縁者である「一家衆」が住職の寺)として、三河国内で最大となる本願寺門徒の活動拠点となったのです。

寛正2年(1461年)には佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町梅ノ木)が本願寺派となり、野寺本證寺(安城市野寺町野寺)・針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町朱印地)も浄土真宗高田派から本願寺派へと宗旨替えを行い、かくして後の「三河一向一揆」下地が整いました。

なお、本宗寺は現在、岡崎市美合町に移転され、妙春尼(徳川家康実母・於大の方の妹で、石川康正(石川数正の父)・家成の母)や石川数正の墓があります。

 



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