堀川城の戦い

堀川城址と伝わる場所/photo by Doricono wikipediaより引用

徳川家

家康が1000人の住民を殺した堀川城の戦い~逃げた700人は生首並べて獄門畷

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なぜ2,000人もの民衆が家康に抵抗?

堀川城の戦い」で最大の疑問。

それは「なぜ、人口3000人の地域で2000人もの人々が武器を持って城に集まったか?」ということです。

これには、今川氏真が「徳政令」を出してくれた名君であり、それゆえに味方したという見方がある一方、江戸時代の古文書には「武田信玄が調略して、徳川家康を討たせよう(少なくともダメージを与えよう)とした」と書いてあることも多いです。

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要は「堀川も(付近の)堀江も、今川方ではなく武田方だった」としたいようですが、当時の手紙を読むと、堀川も堀江も間違いなく今川方です。

ゆえに德川に攻め込まれ、それに対抗したと上記・獄門畷の現地案内板でも説明されているワケですね。

こうした通説とは異なり、私は以前、以下のように考えておりました。

堀川城は、地域住民にとっては避難所であったが、付近にある松崎城(本城)の城兵にとっては詰の城であった。

徳川軍が襲ってくると連絡を受けた地域住民が、武器を持って堀川城へ避難すると、松崎城の城兵が逃げ込んできたので、住民も徳川軍と戦うことになった。

自分で言うのも何ですが、この考え方は少し変でした……。

本来、地域住民の避難所(アジール・聖域)は城ではなく“寺”のはずです。

ドラマでは「堀川城の城兵が、地域住民を強制的に連行し、今川氏真のために徳川家康と戦え」と扇動したという設定になっておりました。

「2000人が集められた」理由の解説にはなりますが、「2000人が武器を持って自主的に集まった」理由にはなりません。

あくまで“自主的”というところがポイントなのです。

ヒントは『武徳編年集成』に隠されておりました。

「去年引佐峠ニテ蜂起シケル気賀ノ賊徒等ガ残党、西光院・宝渚寺・桂昌院、併ニ郷士ノ尾藤主膳、山村修理、斎藤、竹田、瀬戸、余古、加茂、又、刑部ニテハ給人百姓ト称する内山党、其外、寺社人、地下人、又、蜂起シ」(「瀬戸」は瀬戸方久?)

こちらの史料から察するに、「堀川城の戦い」は、

「武士(徳川軍) vs 武士(今川軍)」

ではなく、

「武士(徳川軍) vs 武士(今川軍)と寺侍(臨済宗妙心寺派)と信者」

であったようなのです。

つまり、中心的な役割を果たしたのは西光寺(西光院)と宝渚寺のようで、これを彷彿とさせるのが【三河一向一揆】です。

そうです、この戦いは、家康に対する「気賀臨済一揆」だったのではないでしょうか。

 

今川家に保護されていた臨済宗妙心寺派

堀川城の首塚供養は、合戦のあった3月27日に近い日曜日、気賀の臨済宗妙心寺派4ヶ寺が持ち回りで行われます。

そしてそのうちの3ヶ寺は稲荷山にあります。

稲荷山山麓の案内板

上記の看板をご覧ください。

旧字で少し読みづらいですが、一番左の(西)龍遊山寳渚寺がポイントとなる「宝渚寺」。

以下の写真です。

宝渚寺

そして以下の看板に宝渚寺現地案内板が記されております。

宝渚寺現地案内板

少し長いですが、こちらも文字に起こしてみたいと思います。

「宝渚寺(ほうしょうじ)

山号は龍遊山。宗派は臨済宗妙心寺派。

往古、湖岸に満願寺と称する地蔵の霊場があったが、応安二年(一三六九)、開山の東漸健易和尚が現在地に移し寺名を改め、禅宗になったと伝える。本尊は由来により地蔵菩薩。

天文九年(一五四〇)の今川義元の判物と永禄九年(一五六六)の今川氏真の判物が伝わり、末寺の智海庵、祇園寺、受楽寺の名が記されているが、どこに所在したか明らかではない。

永禄十二年(一五六九)堀川城の戦いで、殿堂傾敗し、寺領が没収されたが、慶長六年(一六〇一)に再興された。江戸時代の朱印高は二石。

明治十九年(一八八六)火災により諸堂宇を焼失したが、同二十三年、二十三世法仙和尚が住職となり、本堂、庫裡、観音堂を再建。

昭和四十三年、鐘楼を整備し、梵鐘を再鋳。以後、庫裡、客殿を新築、境内の西から北の庭は巨大な自然石からなり、雄勁である。

平成二年三月二十日 細江町教育委員会」

(宝渚寺現地案内板)

上記のように、宝渚寺は、もともと今川氏が保護していた臨済宗妙心寺派の巨大寺院でした。

今川氏真の時代には、末寺の智海庵、祇園寺、受楽寺を含めて安堵されています。

そもそも今川領の遠江・駿河両国では、駿河今川4代範政が善得寺(臨済宗)を氏寺とした時から、京都五山の文化を奨励して文化水準の向上に務め、さらに駿河今川11代義元が家督を継いでから、臨済宗妙心寺派の寺院が急速に増えていたのです。

しかし、ここで浄土宗の徳川家康が侵攻してくれば、どうなるか?

「三河の一向宗弾圧と同じようなことが、今川氏真の信仰する臨済宗妙心寺派寺院に対しても行われるのでは?」

と不安を抱いても不思議はないでしょう。

かくして臨済宗妙心寺派の寺が気賀の檀家(信者や地域住民)を扇動し、家康に対抗して戦いに発展したのが「堀川城の戦い」の真相、つまり気賀臨済一揆だったのではなかろうか――。

そんな風に私は考えております。

堀川城の戦いの後、気賀の臨済宗妙心寺派寺院は悉く焼かれました。

一向一揆に苦しみ嫌な記憶を持つ家康が、災いを根絶やしにしてこうと考えても不思議ではありません。

同合戦の後、井伊直虎の師であり、同じく臨済宗妙心寺派でもあった、龍潭寺・南渓和尚が現地にやってきて、堀川城・守将たちの葬儀を行っています。

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いずれにせよ古文書の焼失も手伝って、私の仮説「堀川城の戦いは気賀臨済一揆だった!」という検証・調査は進んでおりません。残念……。

最後に、家康(というか支配者層)がアレルギー反応を示す一揆に関して、補足説明をしておきたいと思います。

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