堀川城の戦い

堀川城址と伝わる場所/photo by Doricono wikipediaより引用

徳川家

家康が1000人の住民を殺した堀川城の戦い~逃げた700人は生首並べて獄門畷

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一向一揆は家康にどう影響した?

若き日の徳川家康を散々に苦しめた「三河一向一揆」とは一体なんだったのか?

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コトの発端は「寺内不入権」を徳川家臣が侵害したことにあり、これには清洲同盟が遠因となっているようです。

一向宗(浄土真宗)を弾圧している織田信長と同盟を結んだことから、「德川の三河でも一向宗の弾圧が行われるのではないか?」とする不安感が生まれたのです。

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それが徳川家臣による寺内不入権の侵害をキッカケとして、一揆に発展――というもの。家康は、多くの家臣も巻き込まれてこの鎮圧に相当手こずりました。

残念ながら「堀川城の戦い」の真相はまだ判明していません。

しかし、徳川家康が半年間もしつこく参戦者を捜索し、9月9日に捕らえた700人を処刑したというのが本当であれば、家康が「三河一向一揆」を思い出し、「他の臨済宗妙心寺派の寺院に広まる前に絶やさねば」と考えても不思議ではないでしょう。

それは堀川城の陥落後、城代として遣わした武将の姓からも見てとれます。

本来、堀川城は、三遠(三河&遠江)境目の城ですので、それなりの人物を城代にしなければなりませんでした。

そこで家康は「懐刀」と呼ばれた石川数正の三男・康次※1を入れたのです。

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「石川」といえば、石川政康※2の子孫で「三河一向一揆」の負け組です。

徳川家康にしてみれば、石川康次を堀川城代に抜擢することで、

「徳川家康はいい人で、負けても父は懐刀とし、その息子を城代に取り上げてくれる。

臨済宗の弾圧はしないと言っているから、他の臨済宗寺院に一揆の呼びかけをしないように」

とアピールしたのではないでしょうか。

ただし、康次は若造ですし、石川数正は浄土宗に帰依させられたので、臨済宗を保護するという意味での説得力には少し欠けますが……。

ちなみに石川一族では、他に石川家成(数正の叔父)が実力者だったと思われ、彼はさらに重要な城(朝比奈泰朝が今川義元と共に出た直後の掛川城)の城主に抜擢されました。

 

気賀の古老は今なお家康を呼び捨て

気賀で最も楽しい年中行事は、牛頭天王社(現・細江神社)の祇園祭でしょう。

このお祭りには、屋台は登場しません。

「出引」(でびき)と呼ばれる太鼓台だけが登場します。

細江神社・祇園祭の出引(太鼓台)

祭りなのに、なぜ出引だけなのか?

それは

「家康に屋台を禁止されたから」

であり、気賀の住民は、このルールを頑なに守り続け、祇園祭と重陽の日に、徳川家康に対する恨みを新たにするのです。

※9月9日は「堀川城の戦い」の残党700人が徳川家康の命で斬首になった日であり、気賀では9月9日の「重陽」(九月節句・菊の節句)の祝いをしない。

今でも気賀の古老は、徳川家康を「家康」と呼び捨て、武田信玄を「信玄様」と呼びます。

德川家康は侵略者であり、武田信玄はその侵略者を三方ヶ原で破ったヒーローだからです。

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武田信玄は「三方ヶ原の戦い」の後、刑部砦に滞在しますが、住民たちはきっと大歓迎したことでしょう。

そして、武田信玄も、その大歓迎に応えたのか、気賀では焼き討ちを行わず、徳川軍に寝返って堀川城を襲った井伊衆の本拠地である井伊谷を蹂躙し、龍潭寺を焼き、野田城へと向かったのでした。

三方ヶ原の戦いについては、以下に記事がございます。

有名な割に謎多き合戦ですが、現地を歩いてリポートしましたのでよろしければ併せてご覧ください。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

※1 石川康次の生年は不明。井伊直虎とほぼ同じ天文2年(1533)生まれの石川数正の20歳のときに生まれたとすると、1569-(1533+20)で16歳と若い! ただし、気賀では、石川数正の子ではなく弟だと伝わっております

※2 石川政康については『寛政重修諸家譜』に以下のような記述があります。

「政康 下野権守 文安年中、本願寺蓮譽、法を弘めむがため下野国に来るのとき、政康にかたりていはく、三河国は我郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべきものなし。ねがはくは、三河国に来りて、わが門徒を進退すべしとなり。これにより蓮譽とゝもにかの国におもくき、小川城に住す。このとき石川に復す。」(『寛政重修諸家譜』)

【大意】政康は、関東に下って布教活動を行っていた本願寺蓮如に下野国で会い、「三河は我が郷党なり。武士の大将として、一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし」との蓮如の誘いに応じ、蓮如と共に三河国へ行き、文安3年(1446)、三河国碧海郡志貴荘村(現在の愛知県安城市小川町志茂)に小川城を築いて住んだ。曾祖父・朝成は妻の姓である「小山」を名乗ったが、政康は、三河移住を機に「石川」に戻した。

三河国に一向宗が根付いたのは、俗説では「親鸞の柳堂の説法」からとするが、史実は「顕智の薬師寺での説法」からです。民衆には広まったのですが、武士にも広めようと、蓮如は、石川政康に目をつけました。

石川政康は、三河国内の本願寺門徒の武における実権の掌握者に蓮如に指名されると、まずは、額田郡土呂(岡崎市福岡町)に「石川一族の寺」として本宗寺を建てました。

そして本宗寺を蓮如に寄進すると、本願寺第9世法主・実如(蓮如の子)の四男・実円が住職となり、同寺は「一家衆寺院」(一向宗法主の血縁者である「一家衆」が住職の寺)として、三河国内で最大となる本願寺門徒の活動拠点となったのです。

寛正2年(1461年)には佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町梅ノ木)が本願寺派となり、野寺本證寺(安城市野寺町野寺)・針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町朱印地)も浄土真宗高田派から本願寺派へと宗旨替えを行い、かくして後の「三河一向一揆」下地が整いました。

なお、本宗寺は現在、岡崎市美合町に移転され、妙春尼(徳川家康実母・於大の方の妹で、石川康正(石川数正の父)・家成の母)や石川数正の墓があります。

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