武器や兵糧などの調達はもちろん、彼らは日頃から領内で高利貸しなども行っていて、領民たちに貸し付けたり、あるいは大名自身に戦費を調達したり。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』では今井宗久(陣内孝則さん)が登場。
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも一人の商人が登場していた。
瀬戸方久(せとほうきゅう)である。
同役を演じたのはムロツヨシさん(『どうする家康』では豊臣秀吉)。
マジメそうだけど、かといって堅苦しくはない。物腰は柔らかく、一堂に会する者たちの警戒心を巧みに解くも、それでいて決して毒がないワケじゃない――。
まさしく商人にはぴったりのイメージだったが、では史実の瀬戸方久とは、一体どんな人物だったのか?
そもそも実在する人物なのか?
永禄12年(1569)8月3日は徳川家康が商人の瀬戸方久に「瀬戸」の苗字を授けた日。
戦国というテーマの中では見落とされがちな商人にスポットを当ててみよう。
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桶狭間を機に武士から商家へ転身をはかる
まず瀬戸方久は実在したのか?
という根本的な問題であるが、これは各種の史料から存在が読み取れる上に、井伊直虎とも深い関わりがあり、実際、ドラマでは欠かせない重要な役になっていた。
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生年は一説によると1525年であり、直虎(1535年)よりも10歳年上となる。
方久の幼い頃のエピソードはほぼ確認できず、その存在が明らかになるのは直虎の父である井伊直盛と年貢の徴収について残された史料から。
更に、その名が大きく取り上げられるのは1560年に【桶狭間の戦い】が起きてからであった。
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もともと瀬戸方久は、瀬戸村に住む松井一族の武士であったと言い、井伊家宗主が直盛の時代には「井伊谷七人衆」にも名を連ねていた「郷士」(土豪)であった。
それが桶狭間の敗北によって家勢は傾き、ついには商人への転身を画策。
名主かつ銭主(金貸し)となって、新国主・今川氏真に巧みに取り入ると自身の所領も安堵され、商家としての道を歩むようになった。
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借金のカタに瀬戸村を手放した!?
井伊家宗主から見れば、配下の者が商人になったワケである。
この時代、商家(金貸し)なのか武士なのか、その身分が曖昧な存在の者たちは他の大名家でも見られ、彼らは互いに利用しあっていたが、井伊家と瀬戸方久も同様の関係であったと思われる。
方久には商才があったのだろう。
次郎法師(井伊直虎)が地頭職に就いて領主となったとき、井伊谷の南東にある瀬戸村を譲られている(後に徳川家康から発せられた安堵状にもそれを含んだ表現がある)。
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このとき初めて方久は、武士を捨て瀬戸村の名主かつ銭主・瀬戸方久になったとする見方もできるが、実は以前から高利貸し業は始めており、井伊家も多額の借金をしていた。
ゆえに瀬戸村は「与えた」というより、「担保に入れていた瀬戸村を借金の肩代わりで渡した」という表現の方が正しいのかもしれない。
この時代、祠堂銭などを保有する寺院や、年貢収入等を持つ武士や名主は、米や銭を高利で貸し付ける銭主も担っていた。
そこで返済が出来ない債務者(「借主」「負人」という)からは、担保の土地を取得していたのである。
しかし、高利貸しとて、確実に大儲けのできる商売ではない。
債務者は、借金の帳消しである「徳政令」を求めて徳政一揆をしばしば起こし、そうなると銭主側が大きな被害を被ることもあった。
氏真が井伊谷の徳政令を強行したワケ
永禄9年(1566年)のことである。
井伊直虎の上級権力者である今川氏真が、井伊領に「徳政令」を出す旨の指示を発した。
これを証する判物は現存していないが、今川方の関越氏経(関口氏経)が井伊直虎宛に出した書状から、「徳政令」発行の要請があったことが分かる。
直虎は、これに反対した。
そもそも、今川氏はなぜ井伊谷に「徳政令」の命令を下したのか。
考えられる理由は以下の通りである。
①井伊領の領民に新城を築かせたいが、負担が大きいので、まずは現在の借金を帳消しにしておく
②井伊領の与力(今川氏から井伊氏に付けられた今川家臣)の借金を帳消しにしたい
要は「領民(農民)のため」という意識は薄く、氏真の防御・権力基盤を強力にしようというものであり、井伊家が受け入れがたいのは当然であった。
おまけにこの背景には、瀬戸方久という新興勢力の台頭を快く思わなかった祝田禰宜も関わっており、彼は領民を煽って「領民のための徳政令」を直虎に迫ったのである。
徳政令に反対するのは、井伊直虎と、金の貸し手でもある瀬戸方久。
一方、推進派は今川氏真と祝田禰宜、さらに井伊家の権力基盤を虎視眈々と狙っていた小野政次。
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両者の主張は拮抗しつつも、次第に直虎と方久はこれに抗うことができず、ついに直虎は地頭職を解任され、永禄11年(1568)11月9日、「徳政令」は施行された。
同時に家老の小野政次が井伊谷城主にも就いた。
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