井伊直盛

井伊直盛像(龍潭寺御霊屋)

井伊家

井伊直盛(直虎の父)の生涯|井伊家のために戦い続け桶狭間に散った無骨な武人

2025/03/31

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公だった井伊直虎。

その父親として知られる井伊直盛(なおもり)は同家にとっては22代の当主だ。

ドラマでは南渓和尚のいる龍潭寺(浜松市)が重要スポットの一つであったが、同寺はもともと直盛の菩提寺である。

彼の戒名は「龍潭寺殿天運道鑑大居士」であり、現在は、遠江井伊家の菩提寺になっている。

戦国期の井伊家にとって重要だった井伊直盛。

彼は一体どんな人物だったのか?

直虎の父親をクローズアップしよう。

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今川に翻弄される宿命

井伊直盛は1526年に生まれたとされる(1504年生誕説もある)。

この頃、井伊家の宗主は井伊直宗で、直盛はその嫡子。

戦国の世にあって同家もまた混迷の最中にいたが、その状況を把握していただくため、少し深く歴史を振り返ってみたい。

時は文明8年(1476年)――。

駿河国守護の今川義忠(義元の祖父)が遠江国に侵攻し、横地氏や勝間田氏を倒した後、帰路の塩買坂で残兵に討たれた。

義忠の意志を継いだ子の今川氏親(今川義元の父)は永正5年(1508)、遠江国守護に任命される。

これを不服に思った前・遠江国守護の斯波義達は、井伊城主・井伊直平(直盛の祖父)と結託して今川の入国阻止のために挙兵。

奮戦むなしく、永正10年(1513年)になって今川氏の勝利に終わった。

結果、井伊直平は今川家の家臣に……。

彼の居城・井伊城(三岳城)には、今川方の奥平貞昌が城番として入城することになり、その後、貞昌は天文4年(1535)に井伊城で亡くなっているので、井伊氏は20年以上も今川氏の支配下にあったと考えられる。

直盛が生まれたのはその最中のことだ。

彼に限らず井伊家の人間はすべからく今川家の影響力に翻弄された人生を送る。

そんな虐げられた生活に変化が起きたのが天文5年(1536)。

今川義元が家督を継いだのを機に、

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

おそらく太原崇孚(太原雪斎)あたりが『遠江国の西端・井伊氏とは、和解しておいた方が得策』とでも判断したのであろう。

この今川氏との和解により井伊城は返還。

直盛は今川庶子家・新野親矩の娘と政略結婚し、その後、井伊谷の井伊氏居館で娘をもうけた。

後の井伊直虎である。

 


鎌倉幕府の【弓始】で射手を務めた

遠江井伊家は弓と歌の家───。同家には、そんな家風との言い伝えがある。

『吾妻鏡』(巻36)に

【日本八介の一人・井伊介が、鶴岡八幡宮の馬場で吉凶を占う鎌倉幕府の年賀行事【弓始】で三番の射手を勤む】

と記述されていたように、井伊氏は有力な御家人として常に「弓馬の道」に励んでいた。

「弓の家」と呼ばれる所以である。

一般的に皆さんが思い描く武士の合戦とは「位の高い武将が刀、雑兵は弓・槍・鉄砲等を持って戦う」という印象をお持ちかもしれない。

しかし、それは正しくはない。

少なくとも井伊氏が信仰する八幡神は「弓矢八幡」とも呼ばれ、「弓」や「流鏑馬」のイメージである。

他でもない今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれたように、弓は武将の代名詞的な武器であった。

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一方、「歌の家」というのは、『新葉和歌集』の編纂で歌人として名高い宗良親王(むねよししんのう)を保護していた折、井伊家でも和歌がブームになったことに由来している。

家老の小野氏は小野小町の後裔といわれ、井伊家でも連歌の会が開かれていたようだ。

そんな文武両道の遠江井伊家にあって直盛は「指折りの武人」として知られていた。

武芸には強いが文芸にはさほどの興味はない。言うなれば無骨な武人。趣味は「鹿狩り(ししがり)」だったという。

彼の最期も、まさしく武人のソレであったが、その前に少し鹿狩りについて記述しておこう。

直盛からは少し脱線してしまうことを先にご承知いただきたい。

 

武芸に生きる直盛

徳川家康は、鷹狩りを好み、生涯で1000回以上行ったとされる。

井伊領内の伊平地区は鹿狩りで有名であった。

同家が彦根に移った後、伊平は近藤氏の領地となっており、その近藤氏の家紋は「近藤抱角」である。

近藤家の家紋「近藤抱角」

近藤家の家紋「近藤抱角」

徳川家康の祖父・松平清康に仕えた宇利城主の近藤満用(みつもち)

その嫡男・近藤乗直(のりなお)は清康の猟にお供した時、鹿を捕えると、その角を引き裂いたという。

腕力に驚いた清康は、

以後、「鹿角(かづの)」を以って家紋とすべし

と仰せられた。

近藤氏は藤原氏の出であり、鹿は藤原氏の氏社である「春日大社」の神の使いであるゆえに、鹿角紋を家紋としたのだとする説もある。

鷹狩りや鹿狩りは体力の消耗を伴う激しいトレーニングであり、同時に「主君と家来のコミュニケーションの場」でもある。

「鹿狩り」は、「ししがり」と読み、「しし」とは鹿や猪のことを指す。

井伊領で盛んに行われていたのが主に「鹿狩り」であり、武芸に生きる直盛にとっては最良のレジャーだったのではなかろうか。

一方、連歌の会は「近隣国人衆たちとのコミュニケーションの場」であり、実は井伊谷宮には多くの歌碑がある。

その一つ、松島十湖の歌碑には、

しろやまに 引佐細江の山をみて むかしの秋を 忍はるるかな

という一首が残されている。

井伊谷宮で一番新しい歌碑

井伊谷宮で一番新しい歌碑

井伊谷城(城山城)があった城山や、『萬葉集(万葉集)』からの歌枕である「引佐細江」を見て、宗良親王が歌に紅葉を添えて送った話などを思い出したのであろう。

さて、今川家の政策転換により本拠地を取り戻した直盛ではあったが、その後の人生はあまりにも劇的であった。

【桶狭間の戦い】である。

 


家来200-300人がほぼ全滅

駿河・遠江・三河国を領した今川義元は永禄3年(1560)、大軍を率いて尾張国へ向かい、桶狭間で織田信長と激突した。

結果はもはや説明するまでもないだろう。

織田信長/wikipediaより引用

数では圧倒的に有利な今川軍が敗北を喫し、そして義元の首がとられたワケだが、井伊家一族もこの戦いに参加していた。

『井伊家伝記』によると、「家来残らず召し連れ出陣」だったと言い、その数は200~300人にものぼる。

それがほぼ全滅に近い状態だったというから、大将をとられた当時の軍隊がいかに脆かったか、現代人の我々にも十分に想像できるだろう。

直盛は、そんな状況の中で先鋒の大将を務めていたのである。

『井伊家伝記』では、今川義元の近習(重臣)60人以上が全て討死か追腹したので、直盛もそれに従ったという。

自分だけ逃げるわけにはいかず、奥山孫市郎に遺言と介錯を託し、後日、生首が井伊谷へ持ち帰られた。

辞世は残っていない。

 

桶狭間の古戦場に「七石表」

現在、桶狭間の古戦場には「七石表」が残されている。

この戦いで亡くなった武将7名の墓の上に石標が建てられ、一号碑が今川義元、二号碑が二俣城主・松井宗信となっている。

三~七号碑は誰の墓か不明だが、そのうちの一つが井伊直盛である可能性は決して低くない。

ここを訪れいつも思うのは、直盛が追腹(義元の後を追っての切腹)をする必要は本当にあったのか?という疑問だ。

この戦いで同じく先鋒の大将だった徳川家康はその後も生き延び、そして天下を制している。

なぜ家康だけが……との思いが湧いてくる一方、その家康に、井伊家の未来を託した井伊直政(井伊直親の息子)が取り立てられるのだから不思議なものだ。

最後に。

以下は、龍潭寺の「御霊屋」(おたまや)と呼ばれる位牌堂である。

井伊直盛像(龍潭寺御霊屋)

中央には井伊直盛像とその位牌。

写真には映っていないが、右側には井伊家初代・共保(ともやす)、左サイドには中興の直政(なおまさ)も置かれている。

井伊の赤鬼こと井伊直政は、後に徳川四天王として、彦根藩祖として、そして幕末まで同家の名を轟かせる礎を作った。

しかし、その背景には徳川260年よりもずっと長い、井伊家の伝統があったことを思い出していただけると、桶狭間で追腹を召された直盛の魂も浮かばれるかもしれない。

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戦国未来

浜松在住の歴史研究家。 戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする。 モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンでは主に『おんな城主 直虎』に関する人物紹介や紀行文を掲載している。

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