激動の時代、幕末。
この荒波のような時勢に志高く、名を残したいと願い、魂を燃やし尽くしたのは、何も男性だけではありません。
勇敢な女性たちは、ときには武器を手に、またあるいは知性と感性を磨き、時代を生き抜こうとしました。
女性であるため表舞台に出ることは少ないとはいえ、その志は決して男性に劣るものではないでしょう。
若江薫子(わかえ におこ)――。
彼女も、そんなひとりです。
【TOP画像】若江薫子を描いた小説『秋蘭という女 (講談社文庫)』
天才少女・薫子
ときは天保6年(1835年)、京都。
薫子(におこ)は若江家の8代当主・若江修理太夫量長(わかえ しゅりだいふ かずなが)の次女として誕生しました。
祖父も父も、和漢の学問に通暁した、学問の家系です。
先祖は菅原道真に連なることが薫子の自慢の種であり、彼女はしばしば「菅原朝臣若江薫子」と署名しました。
父・量長(かずなが)から学問の手ほどきを受けた薫子は、めきめきと力を発揮します。
記憶力に優れ、幼くして天才少女の片鱗を漂わせ始めると、彼女の学問に対する能力は、通常の女子が習う範囲をまたたく間に越えてしまい、学者にふさわしい質と量に達します。
それだけでなく彼女は力強く見事な筆跡と、鈴をふるような美声の持ち主でもありました。
スラスラと文字を書き、美しい声で漢籍を読む姿は優美そのもの。
ただし、それは彼女の容貌に目をつぶればの話でして。
薫子の顔は、色黒であばたのあとが残り、病の後遺症でひきつっていました。
そして、斜視の近眼でもあり、学問に集中するあまり背筋は曲がり、髪はろくにとかさず簡単に結わえただけ……身なりを気にしない女性だったのです。
父の量長としても、
「薫子は醜い娘だが、とても賢い。その才能に磨きをかければ、それ目当てで誰か相手が見つかるかもしれん。いや、婿ではなくて就職先かな」
とでも思っていたのでしょう。
才女として薫子をもてはやす一方で、「理屈っぽくて醜い女だなあ」と煙たがる人も多くいたのでした。
皇后の家庭教師
18才になった薫子は、秋蘭(しゅうらん)と号しました。
さらに20代半ばともなると、当代随一の女流学者として、周囲の注目を集めます。
「是非、うちの娘たちの侍読(じとう・家庭教師)になって欲しい」
万年元年(1860年)頃、薫子に左大臣の一条忠香からそんな話が舞い込みました。
薫子は左大臣家の姉妹を相手に学問や女性としての礼儀作法を厳しく教えます。
その甲斐あってか、姉妹は立派な女性に育て上げられました。
慶応3年(1867年)、孝明天皇のあとを継ぐ明治天皇のお后選びが行われました。
そしてその結果、一条家の姫君姉妹にも白羽の矢が立ちます。
「姉と妹、どちらが皇后にふさわしいだろうか?」
そう問われた薫子は、熟慮の上「妹の寿栄姫」と答えます。
と、その意見も参考にされた結果、明治天皇皇后(後の昭憲皇太后)の入内が決まったのです。
彼女の発言力の強さがうかがえるでしょう。
皇后の家庭教師をつとめ、皇后付きの女官となった薫子。
得意の学問で成功をおさめた女性として、華やかな道を歩めたはずです。
しかし、彼女はそこで満足する性格ではありませんでした。

束帯姿の明治天皇/wikipediaより引用
新政府はもっと攘夷を断行せよ!
薫子は、強い尊皇攘夷思想の持ち主でした。
男相手だろうと一歩も退かず、滔々と自説を展開する彼女の姿に、父親はじめ周囲はハラハラ。
その有り余るエネルギーを、皇后の女官として発散している限りはよかったでしょう。
教え子が皇后になったのですから、「尊皇」という意味では彼女の思想は成就したといえます。
問題は「攘夷」でした。
徳川幕府が倒れ、いざ天皇を中心とした国ができたと思っていたのに、新政府はいっこうに「攘夷」を実現しようとはしません。
それどころか、西洋人の真似をした制度を取り入れ、お抱え外国人を招く始末です。
「一体これはどういうことか! 外国人なんて犬猫に等しい連中なのに、かえって頭を下げて真似をするとはこの恥知らずめ!」
漢籍や儒教にどっぷりと浸かった薫子にとって、新政府の態度は度しがたいものでしかありません。
しかも皇后付き女官という立場から、新政府を批判する建白書を立て続けに出すのです。
かつて攘夷を唱えていた幕末の人々は、相手の持つ圧倒的な力に屈し、その非をさとり、方針を180度転換しておりました。
すでに倒された江戸幕府が当初から掲げていた方針と似たようなものであります。
しかし、京都で暮らし、外国人に接したことすらない薫子は、攘夷思想のアップデートができませんでした。
ペリー来航時あたりで止まってしまった、カチコチの攘夷思想をふりかざし、新政府を公然と批判。
建白書が無視されると、さらに激烈な建白書を提出します。
そして、ついたアダ名が「建白女」という……。
新政府が攘夷を断行しないことに怒っているのは、なにも彼女一人ではありません。
当時は「幕府は弱腰だから外国人を追い払えないでいるが、新政府なら断固として攘夷を実現するはず」と期待していた人々も多かったのです。
彼らにしてみれば、新政府のやり方は裏切りに他なりません。
そんな中、水戸学をおさめながらも途中から開国論に転じた横井小楠は、攘夷思想の持ち主たちから憎悪を向けられた一人。
新政府参与として出仕した小楠は、明治2年(1869年)暗殺されてしまいます。
薫子はこの凶報を聞いて大喜び。
「あのような奸臣が誅殺されたのはめでたいことです。下手人は報国赤心の者たちです。どうか何卒、死一等を減じてください」
流麗な漢文でそう嘆願してくる薫子に、新政府もゲンナリするしかありません。
ついには、あの岩倉具視もあきれはて、木戸孝允宛の手紙で「手の付けようがない女」とまで突き放しています。
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となると方針は一つ。
こんなうるさい女は皇后付きの女官から外してしまえ、となるわけです。
薫子は女官の座を解任され、若江邸において二年の禁固刑となるのでした。
故郷を離れて
二年の禁固刑を終えると、薫子の父・量長は既に没していました。
若江家を継いだ範忠とはそりがあわなかったのか、居づらかったのか。
明治7年(1874)頃に、薫子は実家をあとにします。
そのあとは西国を転々として「婦道」を説き続けました。
そして明治14年(1881)、望郷の念を抱えつつ、丸亀にて世を去りました。
享年47。
天才女流学者、皇后付きの女官であった薫子の、あまりに寂しい最期でした。
薫子の人生を追うと、何とも虚しい気分におそわれます。
彼女の人生はどこにもすっぽりとおさまらない、そんな印象も受けます。
もしも男性であれば、どこかで頭角をあらわしていたのではないか?
そう思ったりもします。
あるいは、もっと柔軟な性格であれば、明治以降の近代的な女子教育の担い手として、活躍する場があったでしょう。
どこかでボタンを掛け違えて、時代のヒロインになりそこねてしまった。
そして人々の記憶から忘れられてしまった……。
そんな虚しさを感じさせる、才女の人生なのでした。
文:小檜山青
【参考文献】
『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon link)