幕末・維新

西郷が流浪の地で出会った親友・川口雪篷(かわぐちせっぽう)73年の生涯

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奄美大島での3年に渡る流刑生活が終わった西郷隆盛

薩摩に帰ってきた西郷は、戻るやいなや島津久光を「地ゴロ(田舎者)」とコケにした上、命令を破って再び流刑に処されます。

次に流されたのは徳之島・沖永良部島でした。

大河ドラマ『西郷どん』では、第24回放送から徳之島・沖永良部島編でしたが、そこで非常に特徴的な人物が登場します。

石橋蓮司さん扮する川口雪篷(かわぐちせっぽう)

一体どんな人物なのか?

まずは公式サイトの紹介を見てみますと……。

謎の書家
川口雪篷 石橋蓮司
沖永良部に流人となって10年の偏屈な書家。大酒飲みで牢に入った西郷のもとにやってきては時勢を述べ議論をふっかける変わり者。島津久光の書庫にあった書物を金欲しさに質に入れ流罪になったという逸話もある。やがて西郷と意気投合し、薩摩に召還されると西郷家に居候する。生涯西郷家を支え、西郷隆盛の墓の文字は雪篷が書いた。

【西郷と意気投合】とありますね。
しかも大酒飲みで、島津久光の書物を質に流した――なんて逸話もあり、これはもう中々破天荒なキャラクターであることが読み取れます。

なるほどこれはドラマには欠かせないスパイス。
本稿では、史実における川口雪篷を追ってみました。

 

なぜ流刑となったのか?

川口は、文政元年(1819年)に生まれたとされています。

西郷が文政10年(1828年)ですから、ほぼ一回り年上。
出身は、種子島とされています。

種子島

雪篷は、はじめ量次郎と名乗っておりました。

陽明学を学び薩摩藩に出仕したとされておりますが、西郷が流刑先で出会うわけですから、当然何らかの罪を犯したわけです。

ではどんな罪で島に送られたのか?
これが以下のように諸説ありまして。

・家族の罪に連座した
・実は罪人ではなく、西郷隆盛に会うためにわざわざ沖永良部島までいった
・種子島出身なのに出世したことを妬まれた
・飲酒による過失

薩摩藩のあった鹿児島県は、現在でも年間の焼酎消費量がナンバーワンの土地柄です。
酒豪も多いぶん、そのトラブルも十分にありえた話でしょう。

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ハッキリしているのは、川口が学識に富み、教育者としてとても優れた資質があった、ということです。
これは、配流後の行動を見ればわかります。

実は川口の場合、流刑されてきた時期もハッキリとはしません。
彼の行動があきらかになるのは、西郷との出会い以降なのです。

 

流人がもたらす教育の光

そもそも薩摩藩は、政治的な流刑者が多くなりやすい特徴を有してました(詳細は以下の記事を)。

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殺人や強盗などの凶悪犯罪者であれば、島民にとっては迷惑な話でしかありません。
しかし政治的に失脚した人なら話は別です。

彼らは思想と教育が藩政や政権と合わなかっただけで、悪質かつ単純な犯罪行為に走ったワケじゃありません。
むしろ豊かな知識を有しているからこそ、政治的な対立も起こしてしまうのでしょう。

よって川口のような人物は、島民にとっては【教育】に光を照らす者となりました。
実際川口は、私塾を開き、島民に勉強を教えていたのです。

性根が悪くトラブルメーカーとなる流刑人がいる一方、子どもたちに知識をもたらしてくれる先生。
それはささやかな希望でもありました。

大島の島民たちは「黒糖地獄」とすら呼ばれる厳しい暮らしを送り、食べていくだけで精一杯です。
そんな島民たちは、どんなに貧しくとも、自分たちの子供にはよりよい教育を受けさせたいと願っていました。

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教育こそ、癒しの力

島民にとってはありがたい、流人による教育インフラ。
それは島民だけが利益を受けるものではなく、他ならぬ流刑人たちにも精神的な安定をもたらすのでした。

閉ざされた島社会で、孤独な生活を癒すためには、さすがに一人っきりでいるわけにもいきません。
流刑人は、自然と、教育者として自己鍛錬に励んだものと考えられます。

実際、西郷は、二度目の流刑において2ヶ月間牢屋に押し込められ、当初は生きていくだけで精一杯という厳しい環境にさらされました。

精神的な打撃にも襲われます。

寺田屋事件で、皇太子・佑宮(さちのみや・後の明治天皇)の養育係であった田中河内之介が巻き込まれた衝撃と悲しみ。
その死を機に、西郷はもはや「勤王」を唱えることはできないと絶望します。

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さらには彼が酷評し、「地ゴロ」(田舎者)では成功するはずがないと評した久光が上洛で大成功をおさめ、幕府の政治改革まで携わります。

西郷としては自分の読みが全て外れたような格好です。

そこで故郷を追放された逆境から成り上がったナポレオンの伝記を読み、再起を誓っていた――と伝わります。

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そんな中、西郷が出会ったのが川口雪篷です。
彼に触発された西郷は、川口と同じく島民教育のための私塾を開き、人間的成長を遂げます。

時同じくして流刑となり、喜界島に流された村田新八も、十人ほどの生徒を抱える私塾を開きました。

村田新八/Wikipediaより引用

村田は、このことを「陰ながらのご奉公」だと感じていたと言います。

罪を得て、流された自分たちにできる、誰かへの奉仕。
それは無聊を慰めるものであり、彼らにとっての贖罪でした。

多くの流刑人がなぜ教育に携わったか。
それは彼ら自身にとっても、癒しだったからでしょう。

 

誠実な親友・川口雪篷

川口と西郷は、流刑人同士として出会い、たちまち意気投合しました。

漢詩と書の名人。
そして陽明学をおさめた川口。
西郷も陽明学を好んでおりました。

一方、江戸時代は、儒教でも「朱子学」が重視されておりました。
これは薩摩藩や会津藩でもそうです。

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そんな中で、敢えて陽明学を学ぶ人は、吉田松陰はじめ「知行合一」(知識と行為は一体であるべき)という思想に心ひかれる者が多い。
陽明学は幕府体制、封建主義の倒壊にも結びつきかねない部分がありますので、江戸時代はあまり推奨されなかったのです。

なぜ川口と西郷は意気投合したのか?
ヒントは、こうした思想背景があるかもしれませんね。

教育、思想、そして友。
西郷は、流刑先で人生の深淵に触れた可能性が高いのです。

川口は、流刑からの赦免後、西郷の友人となり、西郷家に寄寓します。

西南戦争が勃発し、西郷家から男手がなくなると、西郷の妻・糸が気丈に守ることになりました。
そんなとき川口は、唯一の男手として、西郷家を支え続けたのです。

白髪頭の老人となっていた川口は、西郷家をありとあらゆる困難から守るため、全力を尽くしました。
彼は西郷家の精神的支柱であり、脚を失った西郷菊次郎のために、義足の手配をした、と伝わります。

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そして明治23年(1890)、死去。
享年73。
西郷隆盛の死から遅れること、13年でした。

彼は書家としても知られておりました。
最も有名な作品が、南洲墓地にある西郷隆盛の墓碑銘でしょう。

南洲墓地 西郷の墓石/wikipediaより引用

川口雪篷は、今も西郷隆盛に寄り添うかのように、西郷家の墓地に埋葬されています。

 

明治奄美の教育熱、その光と影

明治時代初期から中期にかけ、日本では全国で「私塾」ができ、ちょっとしたブームが興ります。

明治政府が整備する教育機関だけではなく、教育に熱意をもった人々が新たな人材育成のため、私財や人生を投じたのです。
そしてそれらは現在に至るまで、一部が残っています。

・女子英学塾→津田塾大学
・私塾立命館→立命館大学
・順天堂塾→順天中学校・高等学校
・二松學舍→二松學舍大学
・成蹊園→成蹊大学

私立大学に「塾」がつく名称が多いのは、こうした由来のためなのです。
本土から遠く離れた奄美大島にも、こうした「私塾」が出来ました。

南洲塾
重野塾
内田塾
漢学塾
園田英語塾
国漢塾
育俊塾
民直塾
蘇泉塾
安田塾
喜界塾

これだけではなく、名も無き私塾が多くあったという、明治時代の奄美でした。

明治政府も教育改革を進めていたものの、地域によって差がありました。

維新の勝ち組である薩長のお膝元では早く進むものの、負け組の佐幕藩は遅滞することもしばしば。
だからこそ私塾が育った一面があり、奄美地域もまた教育改革から取り残されていた地域でした。

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ただし……これが必ずしもよかったとは言えない一面もありまして。

教育熱が過熱した親たちは、田畑財産を売り払ってでも我が子を私塾に通わせたい、願わくば本土の名門教育機関にまで行かせたい、と願いました。

しかし、高等教育を受けても、地元にはその学識を生かすことができる職場や機会はありません。
優れた教育を受けた若者たちは、本土へと流出してしまい、奄美地域では経済が疲弊してしまったのです。

親たちが、ただでさえ貧しい暮らしをさらに貧しくしてまで、我が子に教育を受けさせたいと願う気持ち。
そしてその結果、我が子は島に戻ることなく、経済が疲弊するというパラドックス。

まるで血を流して、己を犠牲にしてまで教育を受けさせる奄美の人々には、批判すら集まることがありました。

こうした問題は、過去のことでしょうか?
実は、現代の地方大学においてもこのような問題を抱えています。

せっかく地方に、経済的負担をしてまで専門的な教育機関を作っても、就職口がない。
ゆえに育て上げた若者が卒業後に大都市圏へ流れ込んでしまう。彼らが地元を豊かにすることはない。

そんな問題は、明治期の奄美だけではなく、現在進行形で日本が抱えているものではないでしょうか。

※以下は、沖永良部島における西郷の生活にスポットを当てた記事です。
よろしければ併せてご覧ください。

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文:小檜山青

【参考文献】
『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon link
『近世・奄美流人の研究』(→amazon link
『村田新八 (歴史新書)』(→amazon link

 



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