鎌倉時代に鹿児島の守護地頭となり、以来、彼の地を守ること約800年。
常に優れた君主を輩出してきたとして
【島津に暗君なし】
という言葉があります。
大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬の父・島津斉興がまるで権力にしがみつく老害のように描かれておりましたが、実際はさにあらず。
先代までに、膨らみに膨らんだ500万両もの借金を整理したのは斉興とその腹心・調所広郷であり、史実では外国事情にも十分に通じておりました。
彼らだけでなく、実際、江戸期12代の薩摩藩主すべてを見渡してみても、島津にはたしかに優れた人が多いのです。
※以下は歴代薩摩藩主の考察記事となります
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ただし……。
名君の器量を持ってしても、どうにもならない事情が薩摩にはありました。
それが「財政難」です。
財政難は、巡り巡って数多くの「流刑人」を産み落とします。
名君と同時に流刑人も多し――そんな薩摩の特殊な事情を振り返ってみましょう。
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借金と財政改革からのお家騒動
さつま芋を育てやすい代わりに米が育ちにくく、他藩と比して武士の比率が極めて高い――そのぶん生産者層が減る薩摩藩は、全国有数の大藩なれど、財政状況はかなり厳しい自転車操業でした。
なんとか切り盛りしていても、ときには思い切った財政改革に着手せねばならない。
借金をどうにかしようとした結果、権力闘争(御家騒動)が起こります。
ただし、幕府からお取り潰しに遭うようなヘタだけは打てません。
権力闘争には処罰を持ってして対処し、それでケジメをつけていた。
そのため切腹処分を受ける者や流刑人が、かなりの数に上りました。
そういう暗い一面も、薩摩藩の歴史にあったのですね。
御家騒動の結果、誰かが流されてしまう
奄美大島や周辺の沖永良部島など。
薩摩藩からの流刑人のうち67パーセント、実に7割近くが武士階級の者たちでした。
政治争いの成れの果てです。
とりわけ流刑人が目に見えて多くなるのは、蘭癖大名として名高い(悪名高い?)8代・島津重豪(しげひで)から。
彼は将軍家と姻戚関係を結び、薩摩藩の名を高めた精力的な主君として知られています。
しかしその一方で「蘭癖=西洋流」の政治改革で派手に散財し、藩に莫大な借財を作った張本人でもあります。
結果、緊縮財政を目指した9代・斉宜と政治的に対立したわけですね。
この
【蘭癖の派手な殿 vs 堅実な殿】
という構造は、10代・島津斉興と11代・島津斉彬でも続きます。
そしてそれは後の【お由羅騒動】にも繋がりました。
政治闘争は死人も多数出し、同時に多くの流刑人も送りだしたのです。
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ドラマ『西郷どん』では、こうした処断を悪逆非道かつ前代未聞のように誇張しがちでした。
しかし、江戸時代後期の薩摩藩では宿命みたいなもんです。
窃盗や贈収賄といった犯罪で流刑となる者もいましたが、【主として武士の、しかも政治犯】が際だって多い。
家督相続、財政改革……そういった御家騒動のたびに、多くの流刑人が出ていたのです。
幕末になりますと、実質的な藩主である島津久光の勘気を被り、流刑にされた者もいます。
西郷(2度目)、村田新八がこの例にあたります。
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死ぬよりはマシですが、それでも激動する情勢から取り残されるのですから、心情的には辛かったでしょうね。
『南島雑話』に詳しい事情が残されている
幕末の奄美大島の様子は、かなり詳細な記録が残っております。
「お由羅騒動」で流刑となった名越佐源太は、島民との交流や生活の様子を記録した『南島雑話』を残しました。
幕末期、奄美大島の様子を今に伝える貴重な記録。
そこには食文化、生活様式、冠婚葬祭、宗教、行事、言語、動物、産業、行政のことなどが極めて綿密に記録されています。
また、名越は島民への差別感情が薄く、好奇心旺盛で、心優しい人物でした。
島民の暮らしをあたたかなまなざしで観察した彼は周囲から、
「名越様はよか御仁」
と賞賛されています。
幕末の奄美大島の様子がわかるのも、名越佐源太の好奇心と観察力のおかげです。
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