もしもアナタが幕末の薩摩藩に生まれ、西南戦争時に
『大久保から頼まれ、西郷の説得に向かう――』
なんて役割を与えたらどうします?
維新後最大となる内戦で、正面から対決することになってしまった親友同士の西郷隆盛と大久保利通。
ちょっと想像してみただけで胃が痛いというか、もう、何のチョイスも残ってないやん……と絶望してしまいそうになりますが、一方で、こんな【大きな役割】を与えられていいもんか?と魂が震えてしまうかもしれません。
しかし、史実というものは冷酷なもので。
実際に、この大きな役割を与えられた村田新八は、結局のところ西郷隆盛という大人物から離れることができず、非業の運命を共にしてしまいます。
天保7年(1836年)11月3日に生まれた村田新八、42年の生涯を振り返ってみましょう。
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西郷と殴り合って互いを気に入った!?
村田新八(本稿はこの名で統一)は、天保7年(1836年)に誕生。
文政10年(1828年)生まれの西郷から見て、8才年下になりますね。
彼の父は「新番」をつとめる高橋八郎でした。西郷隆盛や大久保利通よりやや上の家格にあたります。
が、実は村田の出生地はハッキリとはしておりません。
鹿児島城下で生まれたことは確か。
養子となった村田家は西郷や大久保と同じ下加治屋町であったこともその通りです。
されど、村田家に入る前、具体的にどこで暮らしていたのかが謎でして。
大河ドラマ『西郷どん』のように、幼少期から西郷と付き合いがあったかどうか、残念ながら不明です。
では、そんな2人がいかにして仲良くなったのか。
真偽不明ながらこんな逸話があります。
【村田が幼い頃、西郷隆盛と格闘になり、そのあと互いのガッツを気に入った】
なんだか、まんま週刊少年ジャンプですね。
ただ、冷静に考えると、西郷と村田はかなりの年齢差があります。
例えば中学1年生(13才)の村田と、大学生(21才)の西郷が殴り合ったのか?と想像すると、いやいや、西郷さん、それはどうなのよという話です。
村田は、当時としては破格の身長180センチを超える大男でした。
子供の頃から大柄だったと解釈しても、さすがに大人げないケンカだった気はします。
24才にして「精忠組」に参加
村田が政治活動に参加するようになったのが確実なのは安政6年(1859年)から。
この年、薩摩で記録された【精忠組】の名簿に、彼の名前があるのです。
精忠組とは、政治に危機感を募らせた若手藩士たちが、大久保利通を中心に集まった集団で、長州藩【松下村塾】と立ち位置が似ています。
西郷や大久保と、村田との付き合いもこの頃始まったと考えたほうが自然でしょう。
そして1859年と言えば【安政の大獄】真っ最中。
村田は、この精忠組の一員として活発に活動するようになります。
具体的には、長州藩の勤王豪商・白石正一郎や、福岡藩の尊皇攘夷思想家・平野国臣らと交流を深めておりました。
ただし、村田ら活発な精忠組の行動は、このころ藩の実質的な権力者であった島津久光からしますと「暴走気味の若手藩士」として映ってしまいます。
島津斉彬は1858年に亡くなっており、西郷も奄美大島へ島流し。
後の薩摩躍進を考えると、当時は決して万全の状態ではありません。
しかし島津久光はよく国をまとめ、藩主ではないものの、実質的な権力者であり国父(父のように尊敬される人)として尊敬されておりました。
そんな久光は1862年、後に【寺田屋事件】と呼ばれる騒動の処断を下します。
京都の寺田屋に立てこもった若手の薩摩藩士。暴走気味だった彼らを斬らせたのです。
斬られたグループの中心人物は有馬新七。
斬り込んだグループの中心人物は大山格之助(大山綱良)。
いずれも西郷の育った加治屋町と関係浅からぬ人々ですね。
幸いなことに、事件の現場に村田は居合わせておりませんでした。
が、関係者として、処罰の対象とされてしまいます。
文久2年(1862年)、村田は喜界島への流刑となりました。
このとき、西郷隆盛は二度目の流刑で、徳之島(のちに沖永良部島へ変更)へ流されることになりました。
流刑地・喜界島からの帰還
流刑地での暮らしは、比較的自由でした。
村田は一人の島民として、天候不順にならないように祈り、作物の収穫を喜ぶような日々。
喜界島もまた近隣の諸島と同じくサトウキビを育て、黒糖を作り出しておりました。
しかし、いくら地元に慣れ親しんだとはいえ、薩摩や中央の情勢は気になって仕方ありません。
時折、届く手紙に一喜一憂する日々であり、流刑者仲間と言える西郷とも文通を続けました。
いつ終わるかわからない。
そんな精神的なプレッシャーが辛い流刑生活。2度目の正月を迎えます。
元治元年(1864年)、蒸気船が突如喜界島に姿を見せます。
島民も、村田も、驚愕しました。なんとこの船は、西郷を乗せた胡蝶丸であったのです。
赦免の知らせすら届いていなかったため、村田は驚き、喜びました。
2年ぶりに帰郷した村田に、ジッと休んでいる間はありません。
激動の京都へ向けて出立したのです。
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