奄美大島での西郷隆盛

西郷の流罪先となった奄美大島

幕末・維新

奄美大島で「フリムン(狂人)」と呼ばれた西郷|現地ではどんな暮らしだった?

2025/01/12

文久2年(1862年)1月14日は奄美大島に流されていた西郷隆盛が、鹿児島へ向けて阿丹崎を出帆した日です。

西郷はその4年前の安政5年(1858年)に、錦江湾で月照と共に入水。

二人は平野国臣らに引き揚げられ、僥倖にも西郷だけは息を吹き返しました。

しかし、彼は死んだも同然の立場。

薩摩藩としても、幕府から睨まれ、入水騒動を起こした人物を放置というわけにもいかず、表向きは死んだことにして、藩の流刑地・奄美大島へ島流しにしていたのです。

ほとぼりがさめるまで暮らし、いずれ戻ってこさせよう――それが藩上層部の判断でした。

かくして無念の気持ちを抱えたまま、南の島での生活を余儀なくされた西郷。

いったい彼は、どんな気持ちで暮らしていたのでしょうか。

西郷隆盛/wikipediaより引用

 


気候は最悪、島民も最低と思った

偉大なる主君・島津斉彬の死。

その死によって一橋派は敗北し、さらには月照一人だけを死へ送ってしまう――。

月照/wikipediaより引用

そんなストレスフルな西郷は、島に着くや、大久保正助(のちの大久保利通)に手紙を送っています。

ざっと訳しますと……。

気候が本土と違って酷い

島の女は美人揃いで京大阪よりよいくらい

でも、手の甲に入れ墨を入れていて気持ち悪い!

キモッ!(原文は【あらよう】という驚きの間投詞)

島の【けとう】(=毛唐・日本人以外への侮蔑表現)は、はぶ性(ハブのような気質)でこちらにつけ込んで貪ろうとする

んんっ?

これはどうしたことでしょう。

大西郷の【敬天愛人】イメージとはかなり異なる、生々しい愚痴っぷり。

悲劇が重なった後で前向きになれるハズもありませんが、にしても現地の人にかなり厳しい感情を抱いていたことがわかります。

奄美の美麗な海も、流罪となった西郷にはただただ虚しかっただけなのかもしれません。

奄美大島のサンゴ

 


イマイチ島になじめない西郷

2018年の大河ドラマ『西郷どん』で描かれた西郷は性格が明るく、誰とでもすぐに打ち解けられる、いわば好青年のように見えました。

しかし、その人物像が史実で正しいかどうかは、意見の別れるところです。

奄美大島に送られたときは異文化の島民と全く打ち解けられず、ストレスがたまりまくり。

気候が合わないばかりか、薩摩や京都、江戸では政治が動いているだろうと考えても、自分には何も出来ない――そう鬱憤をため込み、島民から「気持ち悪い男だ」と思われていました。

なにせ、西郷ときたら、やたらと奇声をあげ、木刀を振り回していたというのです。

状況的にみて、薬丸自顕流の稽古かもしれませんが、知らぬ者からすればやっぱり怖いものでしょう。

以下の動画で、その稽古の激しさがわかります。

※4:30あたりから「猿叫」と呼ばれる独特の掛け声

こうして島の人たちに付けられたアダ名は

【大和のフリムン(本土の狂人)】

でした。

西郷は、龍郷という場所にもなじめず、住居を変えて欲しいと願うほど。

流人として扱われることも不本意でした。

6石という扶持米をもらっているのだから、流人扱いは不本意だと嘆いているのです。

島なら島なりの生活を受け入れて楽しんでいそうなイメージすらあったのに、どうも様子が違う。終始、後ろ向きなのですね。

精忠組を率いる大久保利通に対して、自分は一体何をしているのか。

若かりし頃の大久保利通/wikipediaより引用

不甲斐なさ、やるせなさばかりが募ってきて、冷静に自分の立場を見直す余裕はなかったようです。

もちろん南国を楽しむ――なんてノンキな発想もありません。

 

目のやり場に困るほど親しく振る舞う西郷

荒みきっていた西郷を癒やしたのは、島妻・愛加那(とぅま)との出会いです。

フィクション作品ではロマンチックな出会いを経て結婚しますが、実際にはよくわかりません。

あまりに荒んだ西郷をみかねて、島の人々が妻でも用意しよう――と考えたとしてもおかしくはない状況です。

ただ、西郷が島妻である愛加那を熱愛したことは、間違いないようで。

人前でも平気で彼女の体をまさぐる様子を目にした周囲の人々は、目のやり場に困ると思ったほどでした。

愛加那/wikipediaより引用

愛加那の間に生まれた2人の子・菊次郎と菊草は、西郷の正妻である糸子の元に預けられ、大切に育てられたと伝わります。

ただし、このことをもって「西郷が島民を理解し、差別感情も消えた」と見なすのは、さすがに無理がありましょう。

【親しくすると、つけこまれる】

妻子を得たあとでも、西郷は書状にそう記しているのです。

人前で妻と戯れるほど打ち解けているようで、心の底では警戒心があった――自分が属する鹿児島藩士というアイデンティティと、島民の間には、明確な違いがあると西郷は意識していたのです。

 


【黒糖地獄】への目線

奄美大島は、薩摩藩によるサトウキビの搾取に苦しんでいました。

【黒糖地獄】と呼ばれるほどの圧政を、西郷が目にしなかったはずがありません。

木場伝内に宛てて、「砂糖惣菜買入制」の状況について、詳細なレポートを書き送っています。西郷がこの制度を観察し、記録していたことがうかがえるのです。

元治元年(1864年)には、制度の問題点を指摘し、改善案をあげています。

その内容は以下の通りです。

代官以下の島役人は、人選をしっかりと行うこと。賞罰もきっちり行うべきである。

大島の「正余計砂糖」(生産税から上納糖と鍋代をひいたもの)を現在は無償で取り上げているが、他の島と同じく代金を払うべき。その方が島民のモチベーションがあがる。

茶・煙草・木綿と、砂糖を交換する際の比率を公正にし、不正をしてはならない。

木綿と砂糖交換の際は、木綿を今より値下げすべき。南の島とはいえ冬は寒く、島民は木綿を必要としている。

砂糖車(砂糖搾り器)の金属製の輪が高すぎる。あまりに高いため木製の輪を使っているため、効率が下がっている。藩の利益にもならないから、金属製の輪の値段を下げるべき。

砂糖を入れる樽に中身の量を書けば便利だ。

こう書いてくると、西郷はやっぱり優しい、島民のために制度改革を提言しているのだ、と思うかもしれません。確かにそういう一面もあるでしょう。

しかし彼は、島民よりも藩の利益や効率を追求していたのではないかとも思えます。

幕末の政局において、薩摩藩の原動力となったのは経済力。

西郷が敬愛する島津斉彬の代には【大島・喜界島・徳之島から沖永良部島・与輪島まで】黒糖専売の範囲が広がっておりました。

名君として知られる斉彬ですが、西洋流の改革には大金がかかります。

その資金はどこから出てきたのか? と言いますと、領内での増税分や、島々への専売の拡大にからでもあったのです。

薩摩から見れば名君でも、島の人からすれば別の見方があるということです。

島津斉彬/wikipediaより引用

西郷の成し遂げた倒幕も、豊富な軍資金がなければできたかどうかは不明です。

その背景には交易があり、その品目にはサトウキビがありました。

心優しい西郷が、島民の生活改善を訴えたというストーリーは確かに魅力的でしょう。

ただ、それ以上に斉彬の影響を強烈に受けた薩摩藩士として、藩を第一に考えていたのは当然のことでした。

 

「大島商社」で黒糖地獄の延長戦

この西郷の姿勢を裏付ける話があります。

明治4年(1871年)。

西郷は、薩摩の盟友・桂久武にある計画を提案しました。

桂久武/wikipediaより引用

当時、西郷は政府の筆頭参議でした。

にもかかわらず政府の砂糖勝手販売(自由売買)を批判し、専売商社を作ることを着想。

薩摩藩の圧政から逃れた島民を商社の元で管理し、砂糖売買を独占しようというのでした。

なにも西郷は私腹を肥やそうだなんて考えてはおりません。貧窮した薩摩の士族を救うためです。

が、島民からすればたまったものではない。

そもそも、こんな計画が政府に発覚したら相当危険なものです。西郷自身もそのことを意識しており、目立たぬようにすべきであると、桂久武に指示しております。

政府の中枢にありながら、政府を欺こうとする――。

西南戦争へと続く政府との断絶は、征韓論の前から、既に始まっていたことを感じさせますね。

この強引な計画は、言葉だけでなく実行にも移され、明治5年(1872年)には「大島商社」が設立。

厳しい搾取が始まり、奄美大島からは何度も陳情団が鹿児島県へと向かいました。

が、彼らの嘆願は聞き入れられません。

それどころか投獄・拷問されることすらありました。

西南戦争が始まったあとは、不運な陳情団の人々が、強制的に従軍させられたことすらあったのです。

そして明治12年(1879年)に「大島商社」が解散されるまで。

西郷による、士族を救うための【黒糖地獄 延長戦】が行われていたのでした。

 

「敬天愛人」とは言うけれど

天を敬い、人を愛する、崇高な人類愛――。

「敬天愛人」とは、西郷隆盛を最も端的に表す言葉の一つですね。

ところが、です。

奄美の人に対する姿勢や「大島商社」の行動を考えると『西郷は本当に人を愛していたの?』と疑問を覚えませんか。

振り返ってみれば、西郷隆盛にとって鹿児島の士族、情けをかけた庄内藩士らは「人」の範疇に入りました。

しかし、薩摩藩が一段下の存在と見なしていた島民は別です。

西郷にとって彼らは「けとう」であり「えびす共」でした。

「人」ではなかったのです。

ただし、これは西郷一人の問題ではありませんし、そのことを責めたいという話でもございません。

1789年にフランスで「人間と市民の権利の宣言」が議会によって採択された際、「人間と市民」に含まれていたのは、あくまでフランス人男性のみでした。

女性や有色人種が「人間と市民」に含まれるまでは、長い紆余曲折がありました。

19世紀後半、自国の男性だけを人間扱いしたからといって、それはある程度仕方のないことかもしれません。

ただし。

フィクション作品等で、西郷を「島の恩人」であると過剰に描くのは問題があるかもしれません。

そうなると島の方々から反発されても、仕方の無いこと。

そもそも西郷隆盛の功績は「奄美大島の救世主」とムリに作り上げるより、もっと他にふさわしいものがあるでしょう。

フィクション作品は、そちらにより強い光を当てたほうが無難な気がするのです。

皆さんはいかがお考えでしょうか。

 


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【参考文献】
箕輪優『近世・奄美流人の研究』(→amazon
『国史大辞典』

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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