「維新十傑」の一人であり、その中では最後まで長生きした貴族出身の政治家――岩倉具視。
幕末から頭角を現し、明治十六年(1883年)の7月25日まで享年59という天寿を全うしており、実は日本初の国葬が行われた方でもあります。
近代日本史には欠かせない重要キャラである岩倉具視は一体どんな方だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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奇抜な性格で身分の低い貴族 されど、ただ者ではない
岩倉は、堀河康親(やすちか)という公家の次男として生まれました。
幼少時から公家らしからぬ言動で浮いていたそうで、本名で呼ばれるよりも、「岩吉」という少々小馬鹿にしたアダ名で呼ばれるほどだったそうです。
13歳のとき岩倉家へ養子入りしましたが、岩倉家は公家とはいえ、江戸時代にできた分家だったため、多くの大名と同じ程度の家格でした。
つまり、公家の中では身分が低かったのです。
奇抜な性格・言動で身分が低い……となると、考えの足りない人であればあらぬ方向に行きかねません。
しかし、朝廷で儒学を教えていた伏原宣明(ふせはら のぶはる)が「こいつはただ者ではない」と見込んでくれたため、グレずに済みました。
公家の人もときにダイナミックすぎる行動に出ますからね。
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また、ときの関白・鷹司政通に和歌の弟子にしてもらったことで、朝廷にパイプができました。政通を通じて、岩倉は学習院の充実や身分にとらわれず実力主義の教育を訴えるなど、なかなか大胆なことをしています。
当時の公家は生まれで99%人生が決まるようなものでしたので、朝廷の会議にも特に身分の高い家の人しか参加できませんでした。
岩倉はそれを打開したかったと思われます。
この時点では漠然としたものだったでしょうが、おそらくは今日の議会のように、もっと多くの人が政治に関する話し合いに参加できるようにするべきと考えていたのでしょうかね。
当時は既に黒船がやってきており、岩倉も風のうわさでアメリカのやり口などは聞いていたのかもしれません。政通は即答は避けたものの、大筋には同意してくれました。
公家では日米の条約に絶対反対!
それから五年後、老中の堀田正睦が「アメリカと通商条約を結んでもいいでしょうか」という、お伺いを立てに京へやってきました。
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このときの関白だった九条尚忠(ひさただ・後の貞明皇后のジーちゃん)は割と頭が柔らかい人で、孝明天皇に「勅許をお出しになって、異国とも付き合いをするべきです」という意見でしたが、岩倉を含むほとんどの公家はこれに大反対。88人もの堂上公家が抗議をし、「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれるまでになりました。
さらに、地下家(じげけ)97人による反対の意見書も出されています。
堂上公家は、天皇の住まいである清涼殿の殿上の間に入ることが許されている家のことです。大雑把に言えば、「公家の中でも特にエラい人たち」です。地下家はそこに上がれない身分の公家をさします。
そんなわけで、このとき関白以外の公家は上から下まで「異国とオツキアイだなんて絶対反対!!!」という空気になっていました。
孝明天皇も条約締結には反対だったので、これ以降条約に対する勅許を出さない方針を固めてしまいます。
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まあ、当時の人からすれば
「髪の色も眼の色も違うよくわからん民族と互いに行き来するなんて恐ろしい。後にどんな災いが起きるかわからない」
というところでしょうから、もっともではあります。
幕府は潰すのではなく上手に使って国防を
この騒動から間もなく、岩倉は孝明天皇に意見書を出しました。だいたいこんな感じです。
・あっちこっちの港を開くのは危険だが、一ヶ所だけ港を開いて付き合うのならいいのではないか
・ただし日本国内で異人が移動することと、キリスト教の布教は禁ずるべき
・向こうが何を考えているのか知るために、欧米各国に使節を派遣してはどうか
・徳川家を潰すのではなく、国を守る仕事をさせましょう
前半の二つはともかく、後半二つはさすがの慧眼というところでしょうか。そのまま現実にはなりませんでしたが。
朝廷が許さなかったにもかかわらず、幕府はアメリカの威勢に負けて、独断で日米修好通商条約を結んでしまいました。
孝明天皇は激怒。
水戸藩などへ戊午の密勅で「幕府がこっちのいうこと聞かないからヤキ入れてこい!」(超訳)と命じます。
この辺の政治的ゴタゴタが後の【安政の大獄】へ繋がり、さらには幕府と朝廷の間の溝が深まることにもなりました。
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岩倉は上記の意見書の通り、幕府をうまく使って国を守るべきという考えだったので、朝廷vs幕府という構図はよろしくないと考えていました。
そして京都所司代や伏見奉行といった上方にいる武士と相談し、親しくなってなんとかしようとします。
条約破棄&攘夷で和宮降嫁を認める
その後、【桜田門外の変】で井伊直弼が暗殺されると、事は一応落ち着き、「幕府と協調すべき」という意見の公家が少し優勢になりました。
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そこで幕府側から「和宮様に将軍・徳川家茂へご降嫁いただけませんか」という“お願い”が届きます。実質的には火種ですが。
孝明天皇はまだ腹の虫が収まっていない上、「和宮は既に有栖川宮熾仁親王との婚約が整っている」として断りました。和宮本人も、「異国との条約を破棄するなら」という事実上不可能な返事をしています。
岩倉は「幕府が下手に出てきたのは、人心が離れつつあるのを自覚しているからです。
ここは一つ貸しを作り、“幕府は朝廷の下で政治を行っている”という形をもう一度世間にしらしめるべきではありませんか」と上申しました。
孝明天皇はこれを容れ、「ならば条約破棄と攘夷をするという条件付きで、和宮の降嫁を認めてやろう」と結論を出します。
かくして岩倉は孝明天皇からの勅書を預かって、和宮の東下に随行しています。
岩倉は老中とやりあうには家格が足りなかったので、勅使という役割を与えることでナメられないようにするという意味がありました。この時点で相当の信頼を得ていたことがうかがえますね。
長州は公武周旋役 薩摩は京都守護
孝明天皇の狙い通り、岩倉は老中たちと対等にやりあうことができました。
岩倉は「昨今いろいろと不穏な噂が立っているが、陛下は、将軍が直筆で清書を出すなら勘弁してくださるとのことです」(超略)と主張し、その通りにさせ、その年のうちに京都へ戻っています。
この間、岩倉は母を亡くしたため参内を遠慮し、もう一人の勅使に家茂の誓書を持って行ってもらったのですが、孝明天皇はご満悦だったとか。
ただし、これですんなりとはいきません。
翌年、長州藩主・毛利慶親が「航海遠略策」という提案書を朝廷に提出しました。
「一度結んでしまった条約を破棄したり、闇雲に異人・異国を排除してはかえって攻めこまれてしまいます。いっそこちらから海外の技術を学びに行き、より高い技術力と皇室の威光を外に示すべきです」
そんな趣旨の文書であり、岩倉がかつて提案したよりももう少し積極的なものでした。
孝明天皇が一番嫌がったのは「異国によって日本の権威が損なわれる・荒らされること」だったので、この提案を高く評価し、長州へ「公武周旋役」という役を与えます。
これに対し薩摩は焦り、「このまま放置しておくと皇室がヤバいですよ!」と朝廷をあおって、京都守護の役目をもぎとりました。京都所司代涙目。
佐幕派と見られて「蟄居・辞官・出家」の憂き目に
長州 vs 薩摩の対立が顕在化していく中、岩倉は和宮降嫁に動いたことなどから佐幕派とみられていきます。
周りの公家も孝明天皇に「アイツ、幕府のシンパですよ」(超訳)と言われてしまい、蟄居・辞官・出家を命じられてしまいます。
岩倉は他意がないことを示すため、大人しく政治から身を引きました。
それでも不満に思った尊皇派の何人かは、流刑を主張したり、岩倉に闇討ちの果たし状を送りつけたりとゴネ続けるんですけどね。というか闇討ちって予告したら意味がない気がするんですが、愉快犯みたいなもんなんでしょうか。
この後、岩倉は五年ほど蟄居します。
そしてその間、禁門の変や第二次長州征伐など、世情は大きく動いていきます。
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更には孝明天皇も亡くなり、明治天皇が即位した際には大赦された者も複数おりましたが、岩倉らはまだまだ許されません。
赦免されたのは、実に大政奉還の後のこと。
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政界に復帰した岩倉は、新政府の中で生き残りを狙う徳川慶喜と政争を繰り広げることになります。
慶喜は「幕府がなくなっても、今まで260年も実務から離れていた朝廷がうまくやれるわけはない。きっと徳川家や武家を頼ってくる」と考えていました。
岩倉はこれを見抜き、慶喜や徳川家に特権を持たせないような体制づくりを試みたのです。
しかし、鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が始まってしまうと、やられっぱなしでいるわけにはいきません。
岩倉は徳川家征伐に賛成し、新政府は仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)を総大将として錦旗を持たせて征討軍を起こします。
慶喜は進退窮まり、大坂から江戸へ逃げ帰りました。
これによって岩倉の発言力は大いに増し、「勤王の志がある者だけ残れ!」と啖呵を切ったとか。そして……。
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